Dr.喜作のブログ

2014年3月 の記事一覧

  • 3月9日 本日は記念切手記念日です

    日本で初めて記念切手が発行されたのが1894年3月9日で明治天皇の御成婚25年をお祝いするための切手だそうです。私も小学生だった頃には 記念切手を集めていました。枚方市の香里団地に住んでいて 京阪の香里園駅の近所に今はさすがにないと思いますが ワルツ堂という記念切手を扱っている店があり まだ小学生ですからなけなしの小遣いを貯めては買いに行きました。当時は記念切手が人気があり収集する人もかなりいたと思います。

    記念切手の発行される情報を入手すると 発売日には朝から郵便局の前に並びました。郵便局の一人でも多くの人に販売できるようにというわけの分からん考え方で 順番が回ってきても一回目ではシートの半分しか売ってくれませんでした。半分買ってもう一度列に並び直して再び順番が回ってくるとその半分のシートを渡すとやっと一シートが買えました。

    ワルツ堂に出かけるのに普段出かけるときにはバスに乗りましたが 往復のバス賃を浮かすために自転車で出かけていました。かなりアップダウンがあり狭いバス通りですから かなり危険な道のりでしたが 当時はやっと目標額の小遣いが貯まった嬉しさでニコニコしながら自転車を漕いでいたと思います。

    大人になってある程度経済的にゆとりが出来てから考えると大した金額ではありませんが一月にもらえるほんの数百円の小遣いを使わないように努力して貯めこんでやっと目指していた切手が買えた時の喜びは 何とも言えなかったことを今でも覚えています。何時しか他の事に興味が移り 記念切手を集めることを辞めてしまいましたが あのころに必死になって集めた切手は何処に行ってしまったのでしょう。勿論売ればそこそこの金額にはなるはずのものですから うっかり捨ててしまったことはないと思いますが 実家のどこかにひっそりと眠っているのだと思いますから 今度実家に帰った時に元の自分の部屋を探してみようと思います。

    現在は記念切手に対する興味が私だけではなくて皆からも消え失せてしまったようです。病院で使用する切手を買いに郵便局に行くと ずっと以前に発行されてそのまま売れ残っている記念切手が何種類も販売されています。今では誰も欲しがらないのですから 集めてもほぼ額面通りの価値しかないのかもしれませんが 子供の頃に一生懸命に集めていた私としては残念な気持ちになり、その記念切手を買おうかなとも思います。所が記念切手は綺麗な図柄の為通常切手よりも大きく印刷されている場合が多いので 封筒に張るときに制約されてしまう為に それが面倒で結局は通常切手を買ってしまいます。

    この前銀行に行って窓口で待っている時に何気なく掲示板を見ていたら 何を記念したものかも忘れてしまいましたが記念硬貨が通常の硬貨と交換できるとの事だったので 交換してもらいました。通常の硬貨とは大きさもデザインも異なり結構嬉しくなりましたが 今ではその記念硬貨をどこに置いたのかも覚えていません。以前はやはり記念硬貨を集めておられる方も少なからずいらっしゃったのだと思いますが 今では記念硬貨も銀行に余っている状態のようです。

    私が子供の頃に記念切手を集めていたのは 勿論値上がりを期待しての投機的な動機ではありません。単に美しいその図柄に魅力を感じて 特にシリーズで発行されている場合はそのシリーズを買い揃えられた時には何とも言えない満足感を感じました。今日偶然に記念切手の事を思い出しましたので 実家で子供の頃の切手ブックを探して 現在でも記念切手を販売している店を探して また子供の頃のワクワクした気持ちを味わってみたくなしました。これを読んでいただいている方々も子供の頃の趣味を思い出してみるのも結構楽しいので おすすめして本日のブログを終わりにします。

  • 3月8日本日は忠犬ハチ公が亡くなった日です

    日本人なら忠犬ハチ公の名前をご存知ない方は少ないと思いますが 東京の渋谷駅で既に亡くなってしまった飼い主の帰りを待ち続けた忠犬です。日本人は忠臣蔵が大好きな国民性ですから 亡き飼い主に忠誠を尽くしたハチ公は生前から相当に人気があったそうです。ただハチ公の飼い主は初代が待ち続けられた東京大学の教授の上野さんですが亡くなられてから上野さん宅で面倒がみれなくなり結構何軒もの家をたらい回しにされました。たらい回しにされた理由は ハチ公が結構暴れん坊で面倒をみるのが大変だったからみたいです。

    結構犬好きで大切に面倒をみてくれた方もいらしたみたいですが ハチ公が懐かず結局渋谷の家に舞い戻ったりしていました。ハチ公は初代の飼い主には忠義を尽くしたけれど その他の飼い主に対しては全く心を開かず 結構偏屈な頑固者だったのかもしれません。

    そのうちにハチ公が渋谷駅に入り浸りみたいになってしまったようです。最初は近所の飲食店や子供から虐待を受けた時期もあったそうですが 何度か新聞にハチ公の行動が投書されてから 人気者になり虐められることはなくなったそうです。人気者になってからは渋谷駅もハチ公の存在を公認する形になり 晩年は多少は落着けたみたいです。

    ハチ公が死亡したのは十二歳の時で初代飼い主さんの上野さんが亡くなってから十年以上経っていました。実際に面倒をみてもらったのが一年余りの事ですから その忠義の尽くしようは銅像まで建てられて称賛されるに値するのかもしれません。当時としてはかなりの高齢であり殆ど野良犬の様な生活をしていた割には天寿を全うできたのだと思います。

    死後に解剖された結果 死因としては心臓にフィラリアが多数寄生しており 内臓に悪性の癌が見つかったそうです。たらい回しにされたり虐待された時期もあったみたいですが自分の意志を貫いて立派に最期を迎えたのですから 会いたい飼い主に会えなくて寂しい気持ちは尽きなかったのかもしれませんが ハチ公は犬としてはとても幸福であったろうと思います。

    私は自分の意志で犬を飼ったことがありません。病院に舞い込んできた犬の面倒を死ぬまでみたことはありますが その子が亡くなった時はすごく寂しくてしばらく仕事をしたくなくなりました。一般的に動物は人間よりも寿命が短くて 飼い主よりも先に寿命を終えるのです。私は仕事柄動物の死と向かい合う事が多いのですが 出来るだけ感情移入しないように努力しています。他人の動物の死でも病院を始めた頃には相当にへこみました。その動物の死が自分の至らなさに起因するのではないかと自問自答して苦しみました。

    他人の動物の死ですら 見た目は平然としていますが かなりダメージを受けるので自分の意志で飼い始めた動物の死は想像以上に大きなダメージを受けそうで怖くてとても動物を飼おうという気にはなれません。病院に舞い込んできたから 仕方なしに面倒をみていた犬ですらへたり込んでしまいました。なかなか立ち上がる元気が出ませんでした。ですから私は自分が死ぬまで動物を飼おうとは思いません。

    私は実の母親を数年前に亡くしました。父親も今は元気にしていますが来年米寿を迎えますからいつ亡くなっても不思議ではありません。若い頃からリュウマチを患い 元気でいた母親の記憶が殆ど無いようなものなので77歳で亡くなった時には それなりに覚悟が出来ていて 予想していたほどには落ち込みませんでした。

    父親は私以上に短気で すぐに手の出る恐ろしいオヤジでしたので 若い頃には相当反発して顔を合わせても殆ど口をきかないような関係でしたが ここ数年は結構仲良く話が出来ます。私が下戸なので酒の相手が出来ないのが申し訳ないです。勿論経済的には完全に独立していますが 精神的な支えにはかなりなってくれているみたいなので もし失ったときにはそのダメージは母親の時とは比べ物にならないくらいに大きいと思います。

    ただ人間を含めて動物は生まれてきた時からいつか死ぬことは決まっています。父も自分が思っていた以上に長生きできて 思い残すことはないようなことを口にしていますが 私はとても88歳まで生き延びられそうにないのでその気持ちは多分永遠に理解できないと思います。自分の死を迎えるときに生まれて来てよかったと思えるような人生をおくれたら最高に幸せだと思いますのでそんな風に思えるように頑張って生きていこうと思います。

  • 3月7日 今日は花粉症記念日だそうです

    私のようにデリカシーにかける人間には 勿論まったく無縁の病気である花粉症に記念日があるとは全く知りませんでした。奥様はごく軽い花粉症みたいで 花粉のたくさん飛ぶ時期には 多少鼻をグズグズ言わせておられます。それから奥様は動物病院のスタッフとしては困ったことにこれも軽いのですが猫アレルギーもお持ちです。猫アレルギーとは猫の被毛に分泌されている物質をアレルゲンとして アレルギー反応を起こす病気で奥様の場合はほっぺた等がムズムズされるそうです。

    話が横道にそれましたが そもそも本日をなぜ かかって苦しんでおられる方にとっては忌々しい花粉症という病気の記念日と呼ぶのでしょうか。ごく一般的な俗説によると1993年の3月7日に初めて気象庁が 花粉症の人の為に花粉情報を流したことを記念していると書かれています。私がよく利用する「今日は何の日カレンダー」等では同様の説明がなされています。

    所が 厳密にいうと気象庁はこれまで花粉情報を流したことは一度もないのだそうです。そもそもその日の花粉情報は気象庁とは異なり環境省が扱っていて 花粉の多い時期には発表しているのだそうです。確かにお役所が発信源であるのは間違いないみたいですが 環境省としても本日を花粉症記念日と制定はしていないのだそうです。

    要するに 誰かが勝手に本来環境省の管轄である花粉情報を 勘違いして気象庁が初めて発表した日だという根本的に間違った説を唱え始めて それが定着してしまったみたいです。確かにテレビ等では天気予報の際にその日の花粉の飛散情報がながされるので天気と縁の深い気象庁の管轄だと勘違いしたのでしょう。

    それにしても花粉症記念日なんてマイナーな記念日について取り上げて 厳密に調べてその情報を発表しているなんて世の中にはかなり暇な方もいらっしゃると思いますが まあその情報を有難がって面白がってブログのネタにしている私はもっと暇人なのかもしれません。

    花粉症は私のようにデリカシーの欠片もない人間には全く無縁だと申し上げましたが だからと言ってあまり花粉と沢山接触していると 感作を受けてしまって発病するかもしれません。ですから、現在花粉症とは縁もゆかりもない方でもひょっとしたら罹ってしまうかもしれませんので花粉との接触は出来るだけ避けた方が賢明だと思いますので気をつけましょう。

    花粉症という病気は私が子供の頃にはほとんど耳にしませんでした。最近できた現代病なのかと思っておりましたら世界的に見ればエジプト文明にその病気についての記録が残っているのだそうですが 日本では1960年代から始まったのだそうです。それまで日本に存在しなかったブタクサが日本に持ち込まれたのが花粉症のそもそもの発端だそうです。アメリカの兵隊の荷物にブタクサの種子が付着していて持ち込まれたのだそうです。但し杉や檜は日本に昔から存在したわけですから 病気としてはもっと大昔から存在していたと考えていいのでしょう。

    自分に無縁の病気なので気軽に勝手なことを書き散らしておりますが もうすでに花粉症でお苦しみの方も少なからずおられると思いますので 心よりお見舞い申し上げて 本日のブログを終了いたします。

  • 3月6日 春風亭小朝さんのお誕生日だそうです

    落語家さんには関東の方たちと上方の方たちがいらっしゃいますが 正直申し上げて 関東というよりも東京の落語家さんの落語を聞いても殆ど面白くないし 全く笑えない人が殆どです。春風亭小朝さんは数少ない東京の落語家さんで面白いと思える人です。まあ、ほかに面白い落語をされる東京の落語家さんと言って思いつくのは先代の名人と言われて 笑点の大喜利で司会を務めていらっしゃった先代の三遊亭円楽さん位です。

    どうも東京の人は落語家さんを評価する時に 話が上手いか下手か、粋か無粋かで判断されているみたいですが 落語に求められるものは本来笑いであり面白さだと思います。上手い話なら落語家ではなくて講談師から聞けばいいと思います。そのような意味で現在東京の落語家さんで私が面白いと思えるのは唯一小朝さんだけです。勿論上方の落語家さんでも本当に面白い方はほんの一握りですが、東京よりははるかに沢山いらっしゃると思います。

    人間国宝の米朝さんは御高齢ですから さすがにもう高座には上がっておられないのかもしれませんが 数年前までは一席の落語の中で確実に十回以上は大笑いをさせてもらえます。卓越した話芸で凄く安心して聴いていられます。私が一番好きだった つまり一番面白いと感じた落語家さんは米朝さんのお弟子さんで若くして亡くなられた吉朝さんです。吉朝さんの落語の面白さは あくまでも私の感覚ですが 米朝さんや枝雀さんを超えていたように思います。吉朝さんの落語をそれほど沢山聞いたわけではありませんが この方の落語よりも笑える落語を私は知りません。

    同じく米朝一門である枝雀さんも独特の落語の世界を開拓された天才であり 非常に面白い落語家さんであるのは間違いありませんが 吉朝さんの落語の方が腹を抱えて笑わしてくれる密度が高いように思います。まあ、吉朝さんと枝雀さんが私の知る限りで面白い落語家さんの飛び抜けたツートップですが 残念至極なのがお二人とも若くして亡くなられたことです。

    話芸なんて年齢を重ねることによってさらに磨かれその面白さも拡大したと思いますから お二人が若くして他界されたことは 本当に残念です。吉朝さんはメディアにあまり露出されていなかったので ご存知ない方も多いかもしれませんがインターネットで検索すれば 簡単に見つかります。吉朝の落語を簡単に聞くことが出来ます。残念ながら動画はあまりありませんが音声だけなら結構な数の吉朝の落語が聞けます。是非 名人吉朝の落語をお楽しみください。

  • 3月5日 本日は啓蟄ですが寒いです

    暦の上ではもうすぐ春のはずなのに 当分寒さが居座るような気配です。 私は例年寒さを殆ど実感しないままに冬を過ごせるのですが 今年に限っては多分人並みになんだろうけれど寒さを痛感しております。二十四節気の一つ啓蟄とは暖かくなり土の中に眠る虫たちが目覚めて這い出して来る日だそうです。例年ですとさすがに虫が土の中から這い出して来る姿は見かけませんが、病院の前の歩道で おばちゃんたちの長い長い立話が始まるころです。短くとも30分長ければ二時間以上も続きます。

    どっちみちそんなおばさんは無駄話でもするしかないような暇人なのでしょうし 別に道端で長時間立ち話をすることを禁じる法律も条令もなさそうなので 私が文句を言う筋合いでもなさそうですが もし私の奥様がそんな見っともない事をしたら叱り飛ばすと思います。喋るべきことがあるのなら喋ればよいけれど そのような場合道端ではなくて自分の家のもっと落ち着ける場所で お茶でも飲みながら ゆっくりと喋ればいいと思います。

    本日は3と5の語呂合わせでミスコンの日だそうです。ミスコンと言っても 女性の顔立ちやスタイルと言った外見だけを評価するコンテストから 知性や品格と言った内面まで含めて評価の対象になるコンテストまで様々なようです。まあ、女性の顔の美しさにも絶対的な基準があるわけではなくて その時代や世相によって 好まれたりもてはやされたりする顔立ちもいろんな風に変化すると思います。結局はそのコンテストの審査員の好みに合うのか合わないのかで決まってしまうわけで 客観的な判断が下せているのかどうか疑問に思います。

    このブログでもうすでに書いたと思いますが ミシュランのレストランの評価なんて 私には全くあてにならないものだと思います。ミシュランがどのような基準でどのように判断を下しているのか 全然知りませんし 興味もありませんが 恐らく一人の調査員が一度その店を訪れて食事をして 判断を下しているのではないでしょうか。

    同じ人間が同じものを口にしても その日の天候や体調によって微妙に感じ方が異なるかもしれません。基本的に同じメニューを出していても その日仕入れた素材の良しあしで 一流のプロの料理人が作っても味にばらつきが出るのは致し方がない事だと思います。プロ野球の一流のバッターが同じシーズンのうちでも絶好調の時と大スランプに陥った時では 同じ球を投げられても結果はまるで異なっても全然不思議ではありません。一流の料理人にしても 好不調の波があるのは致し方がないと思いますしたまたま不調の時に判断されれば 不本意な評価しか得られないこともあると思います。

    そもそも食べ物の味に対する評価なんて 全く同じものを食べても微妙な判断は人によって千差万別だと思います。ミシュランがそのレストランの味を評価するにしても 少なくとも世代と好みの異なる男女が十人ずつ位で判断しているのであれば ある程度客観的な判断が下せると思いますが 恐らく一人の人間が一度きりの試食で判断しているのではないかと思いますから その判断に客観性があるとは絶対に言えないと思います。

    自分の舌で本当に美味しいものを見つけようとする努力もしないで 信頼する価値があるのかどうか疑ってもみないでガイドブックの評価を鵜呑みにする馬鹿が多いこの国では ここ当分ガイドブックがのさばる時代が続きそうでうんざりします。

  • 3月4日 近所の家にカラスが十羽ぐらいたかっていました

    病院の受付からみえる直ぐご近所の家にカラスが十羽ぐらいたかっているのをみかけました。一体どうしたのだろうと注意してみていると どうもそのお宅の庭木に赤い実がなっているみたいで カラスはそれを食べに集まっているみたいでした。その庭木にしばらくとまっていると赤くて結構大きな塊を咥えて飛び立ち近所の家の屋根の上でゆっくりとつつきながら美味しそうに食べています。

    一体何の実がこの寒い時期になっているのか気になったので そのお宅の傍まで確認しに行きました。診察時間中に何をやっているのかと思われるかもしれませんが この時期病院は暇なのです。遠くからでも赤い塊が見えたのでひょっとして今の時期に柿ぐらいの大きな実がなっているのかと思いましたが、近くで確認すると南天の実でした。南天の実自体は一粒が一センチあるかないかの大きさですが それが密集して実っているのです。

    カラスは賢いので一粒ずつを食べるよりもブドウのように密集して生えている実を枝ごと折って 咥えて飛び立ち落着ける場所に運んで ゆっくりと食べているのでした。木の下には南天の実が一粒ずつ散らばっていましたが カラスは落ちた実を一粒ずつつつくよりも 密集している枝を折って咥えて飛んでいく方が 効率的であることを知っているから落ちて転がっている実には見向きもしませんでした。全くカラスの賢さには驚きます。

    数年前にカラスの幼鳥を保護したことがあります。巣立つ前に巣から転げ落ちて猫に襲われたみたいで 結構ひどい外傷を負っていました。たまたま見かけた通りがかりの方が 可哀そうなので面倒をみてやってくれと連れてこられらのです。普段なら野生鳥獣の場合、治療は病院として無料でさせてもらいますが 基本的にその鳥獣の面倒は連れてこられた方にお願いしています。

    所がその連れてこられた方が旅行中であと数週間は家に戻らないという事だったので 病院で預かって面倒をみることになりました。ツバメの場合は餌として虫しか食べないので 魚釣り用のゴカイでも用意して食べさせなければならず結構面倒なのですが カラスは雑食性なので 人間の食べるものは何でも食べてくれます。スーパーで売れ残った腐る寸前の果物やパンくず ニンジンやジャガイモの皮など生ごみになりそうなものをきれいに平らげてくれました。ひな鳥なので 食欲が凄くありみるみる体が成長していき 外傷もみるみる回復してくれました。

    カラスと言えば真っ黒だしゴミを漁っていたりして あまりイメージが良くない方が多いかもしれませんが 私も初めてカラスの面倒をみて カラスのイメージが全然変わりました。まず、カラスはすぐ傍で見るとかなりでかいです。最初はヒナだったのでそれほど大きく感じませんでしたが 成長期ですから一杯食べてグングン大きくなり そこらへんによく見かける土鳩よりもずっと大きくて抱いた感じだとほぼ鶏位になりました。それとカラスの羽の美しさは見とれるぐらいで 本当にまじりっけのない黒さです。そして賢いので傷の消毒をするときには多少抵抗しますが 自分を保護して餌をくれる存在だと認識すると直ぐに懐いてきて 甘えるような仕草までするようになりました。何となく可愛くなってしまい このまま面倒を見続けようかと思うぐらいでした。身近で面倒をみるとカラスというのは凄くチャーミングな鳥でした。

    このカラスの雛を病院に保護してからずっと病院の前の電線にカラスがとまっていて朝シャッターを開けるときからずっとこちらを見てカーカー鳴いています。どうしたのかな位であまり気にも留めていませんでしたが 保護していたカラスが十分に飛べるぐらいに成長し、外傷もすっかり治りましたので 近所の公園に連れて行って放してやりました。最初は戸惑っているみたいでしたが 危なっかしく飛んでいると他のカラスが近づいて上手に誘導して 直ぐに上手く飛べるようになりました。そのカラスはなんと病院の前の電線に何時もとまっていたカラスのようでした。

    これは推測ですが 恐らく自分のヒナが巣から落ちて猫に襲われ通りがかりの人に保護されてうちの病院に運び込まれたのを見ていたのだと思います。それから心配していつもうちの病院の前で様子を窺っていたのでしょう。無事に自分のひな鳥が怪我から回復しちゃんと飛べるようになるまで成長したので 未熟な我が子に上手く飛べるようにアドバイスをしたのだと思います。カラスのヒナを放してからはそのカラスを見かけることは無くなりましたからたぶん間違いないと思います。

    その時にカラスの記憶力を含めた賢さと 親が子を思う気持ちの強さに 凄く驚きまた感動したのを覚えています。

  • 3月3日 桃の節句 ひな祭りの日です

    桃の節句の行事は平安時代から貴族社会で行われていたのだそうです。季節の節目に自分の穢れや厄を紙で作ったひな人形に引き受けさせて川に流したいわゆる流しびなからひな祭りは始まったみたいです。その後ひな人形は豪華になり流す習慣はなくなったのだそうです。うちにも二つ年下の妹がいますので ミニチュアの手のひらサイズのひな人形がありました。それこそ箪笥の上に置ける位のガラスケースに収まる大きさのもので それなりによくできていて可愛らしかったと記憶しています。当時我が家は2DKの団地住まいでしたから まあ分相応でしょうがないのかなあと思っていました。

    当時団地の隣の建物に同級生の女の子が住んでいました。小学生でしたから同級生とはいえ 女の子なので殆ど口をきいたこともありませんでした。所が 困ったことに結構親同士が仲が良くて その子のうちには立派なお雛様があるという事でひな祭りに妹と一緒に参加させられることになってしまいました。当時我が家ではちゃんとした雛人形もない位なので ひな祭りなど一切無関係でした。ひな祭りに参加するというのはどのような事なのかさっぱり見当もつきませんでした。ただ女の子が主役のお祭りだという事は何となく予測されましたから 嫌な予感はしていました。

    指定された時間に約束に送れるのは当時から嫌いだったので きっちりとその女の子の家に到着しました。同じ団地のの也の建物ですから ほんの数分で着いてしまいます。大体 同じ団地の隣の建物ですから 同じ広さ、同じ間取りのはずです。うちには置けないものが何故その女の子の家にはおけるのか納得がいきませんでした。案内されて部屋に入るとそのひな人形の大きさにびっくりしました。六畳の部屋の三分の一位を占領しています。一番大きなお雛様なんて子供が一人で抱えるのが大変な位の大きさでした。その女の子のおばあちゃんが大奮発して 孫の為に買ってくれたのだそうです。

    部屋に座って 暫く待たされていると 同級生の他の女の子が数人やってきました。そして嫌な予感は的中して なんと男は私一人でした。大人になってからならそんな環境は嬉しい限りですが まだ小学生で女の子と一日同じ教室にいても 一言も口をきかないのが普通の生活をしていましたから 針のむしろに座らされている気分でした。

    別にお祭りと言っても小学生の集まりですから 甘酒を飲んだり、雛あられやケーキを食べてくだらない事を喋るぐらいのものですが 女の子ばかりの中でポツンと座らされている私は 普段は結構喋る方ですが 一言も発しませんでした。ただただこの地獄のような時間が早く終わってくれるのを待つばかりでした。妹は立派なお雛様にまず見惚れて 出されたお菓子を美味しくいただき 女の子同士のお喋りにも積極的に参加して凄く楽しんでいましたが 私は早く家へ帰りたい一心でした。

    やっとお開きになり帰ろうと玄関で靴を履いている時に 普段からむかつくことを言う女の子が「林君、今日は静かだったわね。教室でも今日ぐらい静かにしててよね。」と憎たらしい事を言われましたが さすがに言い返す元気はありませんでした。気力を振り絞って家に帰り着くと母親に「二度とひな祭りには行かない」と宣言するのがやっとでした。

    それ以来ひな祭りと名のつく行事には一切参加したことがありません。ちなみに妹がうちにあるミニチュアサイズのひな人形ではなくてもっと大きな雛人形を欲しがるようになりました。それが理由ではないのかもしれませんが 母親も次の年からはひな祭りに参加することをすすめたりしなくなりました。

  • 3月2日 今日はカレンカーペンターの誕生日です

    1950年生まれですから 生きていれば64歳のおばあちゃんですが 32歳という若さで帰らぬ人となった為に、ジェームスディーンと同じように私の心の中では 30歳前後の成熟した女性のイメージのまま存在しています。カーペンターズという兄妹デュオがいたことも今どきの若い人ならご存知ないのかもしれませんが、その妹でありボーカリストであるカレンは、私の知る女性ボーカルの中で最高にチャーミングな存在でした。その独特の低くて張りと伸びのある声は 他のだれにもまねできない輝きがあったと思います。

    1970年代 私が中学から高校に通っていた時代にカーペンターズは どちらかというとハードなロックがもてはやされた時代であるにもかかわらず ソフトロック的なテイストでヒット曲を連発してくれました。私の一番好きな曲は「雨の日と月曜日は」、一番好きなアルバムは「アソングフォーユー」です。このアルバムは当時の事ですから勿論レコードの時代ですが それこそレコードが針で擦り切れるぐらいに繰り返し繰り返し聴きました。私の中で一番繰り返し聴いたアルバムはこれか若しくはビートルズの「ラバーソウル」だと思います。「雨の日と月曜日は」は今聴き直しても 涙がこぼれそうになるくらいの名曲であり 名演奏だと思います。

    中学に入学してから 小学生の頃はテレビ一辺倒だったのが ラジオにのめり込みました。初めて聞く洋楽は新鮮であり、まず最初に魅入られたのがビートルズの名曲の数々でした。でも私が興味を持ってメンバーの名前と顔を覚えた頃にはすでに解散する時でした。解散してから後を追うようになけなしの小遣いをためてはせっせとビートルズのレコードを買い漁りました。ビートルズのレコードしか持っていなかった私が初めてビートルズ以外のアーチストのレコードを買ったのがカーペンターズでした。カレンの歌声はそれほど魅力的でした。勿論リチャードのアレンジが素晴らしいからカレンの歌声がより魅力的になったのは十分承知していますが あまりにカレンの声は最高でした。

    大学に入るころには興味がピアノを中心としたクラシックに移ってしまったので 私の中でのカーペンターズの存在は少しずつ薄れていきました。そしてすっかりカレンの存在を忘れていた83年の二月に突然カレンの死のニュース それも拒食症が原因というショッキングな出来事で 驚きあまりに若くして逝ってしまったカレンに凄く悲しみました。それまでにも拒食症という病気があることは耳にしていましたが まさかその様な病気であの光り輝いていたカレンが死にいたるなんて全く信じられませんでした。

    久しぶりにカーペンターズの歌を聴き直してみました。勿論、その素晴らしさは全く色褪せていませんでした。時代はレコードからCDに移り変わっていましたので CDを買い直して聴いてみるとレコードよりもさらに鮮明にその音楽性の素晴らしさやハーモニーの分厚さに改めて感動しました。

    カレンの存在はもうこの世の中にはありませんが レコードから形を変えてCDとしてその素晴らしい歌手としての足跡は確実に残っています。その音楽に触れることで カレンの存在を確かに感じられます。今また久しぶりにCDでその歌声を聴きながらこのブログを書いていますが、カレンは幸せだったのかどうかと思ってしまいます。歌手としては勿論紆余曲折あったと思いますが名曲、そしてヒット曲に恵まれ凄く幸せだったと思いますが プライベートでは結婚生活もうまくいってなくて離婚寸前だったみたいだし、拒食症になるぐらいだから精神的にも極度に追い込まれていたのでしょう。名声もあり、金銭的にも余裕はあったのでしょうから もっと気楽にのんびりと人生を楽しむことを考えれば きっと長生きできたのにと思ってしまいます。まあ、私のような凡人には理解できない次元で悩んでいたのでしょうから 今更何を申し上げてもしょうがありませんが 歌手としてはいわゆるおばさんになって 味のある歌声を聴かせて欲しかったのになあと思ってしまいます。ここで改めて陰ながら 心よりカレンのご冥福をお祈りいたします。

  • 3月1日 本日から弥生です

    弥生の雅言は 草木が芽吹いてどんどん成長する春を意味するようですが この寒さでは梅はチラホラ咲き始めていますが桜はまだ当分先の話のようです。私は太っていますので普通の人よりも汗かきで 夏はその分水分をたっぷりと補給します。普通の大人なら夏はビールの美味しい季節かもしれませんが 下戸の私はもっぱら麦茶一辺倒です。

    寒い季節はさすがに私でも殆ど汗をかきませんから それほど水分を取りませんが病院の受付に座ってこのブログを書いていると寒くて仕方がないのでついお湯を沸かして暖かい飲み物を飲んでしまいます。

    一時期コーヒーに凝ったふりをして サイホンやミルを購入してコーヒーを入れて ゆっくりと楽しんだことがあります。私はコーヒーの味としては 苦味が強くて酸味が弱い方が いかにもコーヒーを飲んでいることを実感できるみたいな気がして 好きです。コーヒー豆の銘柄にも拘ってみたかったのですが なかなか種類の区別がつかなかったので 情けなくなってきて コーヒーに拘るのをあっさりと諦めました。

    続いて 刑事ドラマ「相棒」の影響を受けて 杉下警部のように紅茶に拘ってみた時期もありました。杉下さんのようにポットを高い位置に持って行ってティーカップに注ごうとしてみましたが なかなか上手きできませんでした。いつも周辺を滴だらけにして奥様から御叱りを受けていました。勿論茶葉の銘柄にも拘ってみたかったのですが 私は残念ながら味音痴みたいでコーヒーと同様に上手く判別できませんでしたので これもまた拘るのを諦めました。

    今ではコーヒーも紅茶も砂糖やミルクまで一緒に封入されているスティックタイプが手間が省けるので便利です。もはや味にこだわるよりも手間暇省けるし 結構安上がりなのでスティックタイプの大箱を買ってきて医局のテーブルの上に並べています。その他にミルクココアや抹茶オーレまで粉末タイプが揃っています。柚子茶用の柚子ジャムやホットカルピス用にカルピスも置いてあります

    日本茶はかなり上等のおちゃっぱが実家にふんだんにあるので それをもらってきて奥様がティバック用の袋に小分けして入れてくれていますので それをカップに入れてお湯を注いで楽しんでいます。それから昆布茶や梅こぶ茶も割と好きでちょくちょく飲みます。昆布茶はだしの素代わりに料理にもよく使うので 二階の台所にも大袋入りを常備しています。

    その他にカップスープもポタージュやコーン味、カボチャ味等各種取り揃えています。更にインスタントのお味噌汁もあさげやゆうげ、マツタケの味お吸い物までを取りそろえています。

    なんだか百貨店みたいにいろいろなジャンルの飲み物を取りそろえてしまいました。本当は紅茶なら紅茶で いくつかのお気に入りの茶葉を揃えておいて その日の気分で種類をチョイスするのがカッコいいとは思いますが 所詮味音痴の私は その日の天気や気温によって 一番心がホッとするような飲み物を選んでいるようです。

    どうせ五十を過ぎた白髪頭の太った爺さんなのだから 今更カッコつけてもしょうがないと諦めました。背伸びしないで自分の身の丈に合った生き方をするより仕方がないのだと分かってはいるつもりです。けれど心は少年なんです。何時かひょっとしたらひょっとして どこかでカズミンと偶然に巡り合って 恋に落ちるのではないかという妄想から どうしても卒業できないのです。

    こんな私の姿を見て奥様はいつもあざけ笑っていましたが 最近では悲しそうに寂しそうに私を見つめるようになりました。そんな冷ややかな視線にも負けずに 私は私の妄想の中で幸せに生きていこうと思います。