Dr.喜作のブログ

2016年11月 の記事一覧

  • 11月16日 そろそろ今年も紅白歌合戦の出演者が決まる時期です

    昨年は乃木坂46の四年目にして初めての出演が決まるのかどうかで かなりやきもきしました。一昨年殆どの出演予想で 当確の印のるいていた乃木坂でしたが 出演者発表間際に サユリンゴが不祥事を起こして その為だけかどうかは分りませんが 出演できなくて 悔しい思いをしていただけに 尚更感動的な初出演でした。今年の乃木坂の活躍から見れば 二年連続での出演は絶対に間違いない所だと思いますから 私の関心はもっぱら結成僅か二年目の欅坂46が出演できるかどうかに尽きます。インターネットで検索してみた出演予想としては 五分五分と言う勝かなり微妙な所の様です。
    欅坂のデビュー曲は 結成されてから一年もたたないうちに発売されましたが 歴代女性歌手のデビュー曲のCD初週売上で一位を記録したのだそうです。現在は新曲が出ても ダウンロードするのが主流になっているからかもしれませんが CDの売り上げが伸び悩んでいる時代としては 画期的な事だと思います。それまではHKTが記録を持っていたのだそうですが 結成されてから二年以上経過してからやっとデビューCDが発売されたので じっくりと知名度を上げて 相当数のファンを獲得してから 満を持してのデビュー曲発売でしたから 欅坂の方が 結成されてからの期間がずっと短いし 毎日公演できる劇場もないので地道にファンを増やしていくことも難しいですから その注目度が大きく上回ったと言う事になりそうで かなり画期的な事の様です。
    デビュー曲の「サイレントマジョリティー」がメロディーもアレンジも衣装もダンスも 全てが素晴らしかったから 歴代一位に輝いたのも 多少は出来過ぎかもしれませんが 二曲目の「世界には愛しかない」でかなりズッコケてしまったように感じていますので かなり心配しています。もうすぐ三曲目が発売されますが いい曲に恵まれることを祈るばかりです。兎に角 乃木坂ですらで結成されてから四年目で初めて出演できましたから 今年欅坂が結成二年目 デビュー曲を四月に発売してわずか八か月で の初出演が実現できれば 素晴らしい快挙だと思いますので ファンとしては大いに期待しています。何時ごろ出演歌手が発表されるのか 詳しいことは知りませんが 期待と不安が半々の気持ちでその発表を待とうと思います。
    もし出演が叶ったとしたらセンターの平手ちゃんがまだ中学生なので 恐らくトップバッター辺りを務めることになると思います。乃木坂もどっち道 前半に紛れ込むと思いますから 今年の紅白歌合戦は 一応録画しますが 最初から見逃せないので 久し振りに腰を据えてじっくりとみてみようかと思います。但しベテラン演歌歌手のオジサン オバサンのオンパレードは見たくないので いい加減世代交代が進んで 若返った出演者になってくれることを期待します。

  • 11月15日 坂本竜馬は1835年の本日生まれて 1867年の本日暗殺されてしまいました

    歴史の話をするときに「たられば」は 厳禁とよく言われますが どうしても日本の歴史を振り返る時に織田信長と 坂本竜馬には もう少し長生きをさせたかったと思ってしまいます。信長が本能寺で死ななければ 勿論十五代も続く徳川時代はなかったでしょうから その後の日本の歴史は全く異なる展開をしていたように思います。キリスト教を含めて西洋の文化を積極的に取り入れていた信長が 国づくりをすれば キリスト教が禁じられることはなかったでしょうから 日本人の宗教観そのものが根本的に違ってきていたように思います。勿論鎖国もしなかったでしょうから 外国の影響をもっと大きく受けて その事自体が日本にとってプラスになったかどうかは見当がつきませんが 少なくとも日本の伝統的な文化そのものに大きな影響を受けていたでしょうから 日本と言う国が現在とは全く雰囲気の異なる文化を持つ国となっていたのではないでしょうか。
    坂本竜馬にしても お互いを天敵と考えていた薩摩と長州を同盟させるという 空前絶後の発想の持ち主ですから もう少しでも長生きしてくれていたら 明治維新にどのように関わっていったのか見当がつきませんが 明治政府にそれなりの影響力を持つ存在であることは間違いなかったと思います。若い頃に読んだ文献で 竜馬は亀山社中と言う商社を立ち上げていましたから 明治政府の役人になるつもりはなくて 商人として世界を相手に貿易をしようと考えていたみたいです。勿論竜馬は金持ちになることを望んでいたわけではないのでしょうから 世界を相手に貿易をして新しい文化をどんどん吸収して その後の日本の発展に大いに貢献してくれていたのではないでしょうか。私の勝手な想像ですが 西郷隆盛が明治政府の中で孤立してしまったときに 上手く仲介して 西南戦争のような悲しい結末を迎えることもなかったのではないかと思ってしまいます。
    「たられば」の話を広げても 情けなくなるだけなので このあたりで終りにしようと思いますが 竜馬が亡くなったのはわずか32歳の時です。私がもうすぐ還暦ですから 私の本の半分ほどしか生きていないのに 竜馬の存在を知らない日本人は死後150年近く経ちますが恐らくいないでしょう。男なら竜馬の生き方に憧れる方は非常に多いと思います。竜馬はやはり一種の天才だったのだと思います。その柔軟な発想と 頭の回転の速さや抜群の知識の吸収力は 常人ではなかったのでしょうから そのような天才と 凡人の中でも味噌っかすの私を比較すること自体が おこがましいのは間違いありませんが 一人の男としては 私が生きてきた証 と言うかこの世の中にほんの小さな爪痕でも 今後の人生で残していきたいと思います。

  • 11月14日 本日はパチンコの日なのだそうです

    何故本日が パチンコの日と定められたのかと言うと 1930年の本日 名古屋でパチンコ店第一号の営業が許可されたことに加えて 1965年の本日 全国遊技共同組合連合会が発足したことによるのだそうです。私は現在はギャンブルを一歳嗜みません。ただ一つ目の大学時代に 結構暇を持て余していましたから 少しだけパチンコ店に通った時期がありました。勿論貧乏学生の私でしたから 一回につぎ込むお金は千円と決めていました。千円あれば 大学の生協の食堂で夕食が三回食べられましたから 私にとってはかなりの大金でしたけれども。
    当時のパチンコは現在のようないろんな機能がありません。
    最初のタイプのフィーバー台が登場する前の時代ですから 現在のコンピューターで管理されている台とは趣が 全く異なります。チューリップが開くようになったばかりの時代でしたから 私が心掛けたのはチューリップが開いた状態の穴に 同時に二個の球を入れてまたチューリップが開いた状態に持っていくことを目指してうっていました。それからハンドルを回すと一定のリズムで球が打ち出される自動パチンコが始まったばかりの時代でしたが 私は自分のリズムで弾きたかったので 自動パチンコの台を避けて 自分の指ではじく台を探してうっていました。
    一つ目の大学を卒業した頃に フィーバー台が登場しましたが あっと言う間にそのブームが広まって 殆どの代がフィーバー台に変わってしまいました。フィーバー台は 要するにフィーバーが作動するとほっといても打ち止めにできるけれども フィーバーを作動させるのが非常に難しいのです。これまでのチューリップ台で粘って頑張って出玉量を少しずつ増やすような地道なパチンコではなくて 宝くじを買って当たれば打ち止め 当たらなければ即負け と言う風なよりギャンブル性の強い遊戯に変化してしまいました。もともとパチンコはギャンブルですが 地味に頑張って粘って そんなに大勝は出来ないけれども 数百円の投資で 千円以上が戻ってくれば上出来 と言うようなみみっちい勝負が出来なくなってしまいましたので パチンコとはそれ以来縁を切りました。
    それ以外でギャンブルの経験があるのは 大学時代に友人とやっていた 可愛らしいレートの賭け麻雀ぐらいでしょうか。主なレートは千点三十円 箱てんで900円 一晩に動いても二三千円位の お遊び賭け麻雀でした。麻雀と言うのは 非常に面白い遊戯だと思います。別に金銭をかけなくても十分に楽しめますが 勝負に刺激と真剣みを求めるために 些細な金額を賭けていたのだと思います。私は 麻雀を家庭麻雀で小学三年生の時に覚えました。
    当時は団地の一階に住んでいましたが 二階の知り合いのおばちゃんが 麻雀を覚えたいと言い出したので 父親が麻雀がそこそこ好きで 結構強かったみたいなので 先生役を買って出ました。そのおばちゃんと うちの両親 人数合わせに私を加えて四人で 時々麻雀をうつようになりました。暫くすると その言い出しっぺのおばちゃんは 自分の友人たちとうつようになりましたが 私と母はせっかくルールを覚えて 面白くなってきたところでしたから 仕方なく妹を加えて家族全員で麻雀をうつようになりました。土曜日の夜に 時々家族で麻雀をうつようになりましたが 私はその面白さにすっかりはまってしまって 本屋さんで麻雀必勝法をうたった本を何冊も買ってきて 勝つためのうち方を自分なりに研究しました。点数の計算の仕方や上がり役など細かいルールや 麻雀の歴史についても色々と勉強しました。
    中学時代になると 男子にそろそろ麻雀を覚えた連中がいました。私はそんな友人たちと 積極的に麻雀をうって 仲間を増やしていきました。但し私は小学生の頃から覚えて それなりに必勝法を勉強していましたから 覚えたての友人たちと勝負しても 殆ど勝利を収めていました。麻雀については かなり天狗になっていましたが 高校に入ってからは その鼻が見事にへし折られました。麻雀はある程度運によって勝負が左右されます。しかし私よりも段違いに強い友人が数名いて その連中には 幾らついていて 運がこちらにあっても勝てませんでした。
    高校時代までは さすがにまだ子供と言う意識があったのかもしれませんが 一切お金はかけずに麻雀をやっていました。お金など書けなくても十分に面白くて 徹夜で楽しめるゲームでした。大学生になると大人の気分に浸りたくて 酒やたばこに手を出すようなものかもしれませんが 多少は金銭をかけて麻雀をするようになりました。もっぱら同じサークルの合唱団のメンバーとマージャンを楽しんでいました。このゲームはかなり長時間にわたって一緒にいますから 必然的に話もするし ともに食事もするので より一層仲間意識が出来て サークルのメンバーとの重要なコミュニケーションの一つだったように思います。
    二つ目の大学である岐阜大学でも クラスの連中や囲碁部のメンバーとちょくちょくマージャンを楽しみました。私は普通の学生よりもかなり年齢が上でしたが 一緒に麻雀卓を囲むことで 結構仲良くなれたような気がしますから 有難いゲームでした。現在でも暇な時には インターネットの無料麻雀ゲームを楽しんだりします。麻雀は結構頭を使いますから お年寄りのボケ防止にも役立っているという噂ですから これからも時々麻雀ゲームを楽しんで 頭を回転させて ぼけ老人にならないように努めようと思います。

  • 11月13日 一つ目の大学時代の友人とお食事会を開きました

    私の個人的なここ数年の目標でありました 一つ目の大学時代に 同じサークル 混声合唱団で共に歌った仲間が 枚方に私を含めて四人も住んでおりますので 以前から一度再会して 旧交を温めたいと考えておりました。私は 昔枚方の香里団地で暮していて 開成小学校を卒業して 枚方四中にも一年通いましたから もともとひた方には縁がありました。中二の時に現在の実家のある 交野市の松塚に引っ越しましたが 病院を開業できそうな物件を探していて たまたまこの地で適当な物件が見つかりましたので 動物病院を始めまして現在に至っております。
    四人のうちお二人はご夫婦で 男性は一学年先輩ですが 確かご出身は関東地方だったと思います。日本生命と言う一流企業にお勤めで そろそろ定年を迎えられそうな時期ですが 現在は枚方に自宅を所有されています。少し前から岡山へ転勤命令が出たのだそうで サラリーマンの辛い所でしょうが 仕方なく単身赴任されていて 土日だけこちらにお戻りなのだそうです。枚方には縁もゆかりもなかったのだそうですが たまたま自宅を求めておられて 枚方にやって来られたのだそうです。奥様はもともと大阪のご出身だそうですが 枚方とはやっぱり無縁だったそうです。
    もう一人は同じ学年の女性ですが 三十人もいる同学年の卒団生の中で 私が一番恐れていて 苦手としていて これまで殆どお話もしたことがない方なのです。神奈川県のご出身で 私はもともと関東地方の言葉を話される方はなんとなく話が合わないような気がして 苦手な存在となる場合が多いです。この女性は なかなかの美人でしたし スタイルもよくて 胸のふくらみのボリュームが凄かったのが特に印象的でした。関東出身で美人 と言う私が苦手な要素の多い方でしたが 更には「私 関西弁喋る男性は嫌いです」と断言されるようなはっきりとした性格の方でしたから 私は冗談じゃなくて 半径十メートル以内には近づかないように細心の注意を払っていました。
    そんな女性ですから 何も今更積極的にこちらから 再会を希望しなくてもよいのかもしれませんでしたが 人生に退屈している時期だったからかもしれませんが あえてチャレンジしてみたくて 今年の九月ごろだったと思いますが 思い切って一緒にご飯でも食べませんか とお誘いのメールを送ってみました。最悪の場合「私を食事に誘うなんて百年早いわよ」と言う返事が返ってくることも覚悟しておりましたが 幸いにも色よいお返事のメールがほんの二三日で返信されてきましたので ホッとしました。
    メンバーとしては 四人だけでは寂しいので もう少し周囲の人間に声をかけてみることにしました。私の苦手な女性が京都の宇治に在住の同じ学年の女性に声をかけて頂き 参加してくださることになりました。その子は 私と同じ四条畷高校の出身で いつも練習終りに同じ京阪電車で帰っていたので 特に仲良くして頂いていた方でしたので とても楽しみにしていました。それと奈良市にいる私の一番の仲良しの男性に声をかけて 参加してもらう事にしました。
    メンバーが一応確定しましたので 次に集まる日程と時間帯を決めました。私は最初夜に集まる方が ゆっくりできるかと思っていましたが 女性が二人とも主婦の方ですから あまり夜遅くまでの外出は難しいかもしれないと気付きました。男性はまだ会社勤めをしていますから 曜日としては土日の昼間と言う事で 日程を詰めていって 最終的に本日の昼間に集まることが決まりました。食事をする場所としては 出来たら個室のあるお店の方が落ち着いて話が出来るので そのようなお店を探しました。
    二か月近く先の話でかなり余裕があるので そんなに苦労しなくても見つかるだろうと安心していましたが 運悪くその日は 何かよほど日和が良かったのかもしれませんが いろいろな催し物が開催される予定になっているみたいで何軒かの落ち着いて食事のできそうなお店に電話してみましたが 個室の予約が埋まっているとのことでした。それで仕方なしに「仙亭」のレストランを予約しました。一応様子を見に行きましたが お客さんが空いていれば静かに食事が出来そうな雰囲気でした。
    この「仙亭」は一応枚方では一番格式のあるお店のように認識していますが 個室を利用する場合 食事の代金に消費税がかかるのは当然ですが それとは別にサービス料金が十パーセントかかります。まあ個室までわざわざ運んでもらって 料理を並べてもらってさげてもらうのだから致し方がないのかもしれませんが なんとレストランで食事する場合も同様にサービス料金がかかるのだそうです。私は貧乏人だからかもしれませんが レストランで食事をしてサービス料金を払った記憶が殆どありませんでしたので 若干むかつきましたが 他にお店が見つかりそうにもなかったので 諦めました。
    いよいよ本日 私にとっては待望のお食事会が行われました。一学年先輩の男性は 現役の団員であった頃に 男性四人組のユニットを組んでともに歌っていた位に 可愛がってもらいお世話になりましたが卒業して以来殆どお会いする機会がなくて四十年近くぶりにお会いします。奥様は私と同学年の方ですが かなりお美しかったので(過去形にしてもいいのでしょうか?)殆ど現役の団員であった頃にはお話したことがありませんでした。勿論奥様とお会いするのも卒業以来だと思います。
    私は現在もそうですが 二十歳前後の若かりし頃には お美しい女性と話しすることが とにかく苦手でした。自分の外見についてのコンプレックスがあったからかもしれませんが 奇麗だと判断した女性は なるべく近くに寄らないようにしていました。こんな表現を使ってしまうと 私が親しく話していた女性は奇麗だと判断していなかったようになりますから 一寸問題が起こりそうですが 乃木坂でも マイヤンやナナミン イクチャン等のいわゆる美人タイプのメンバーよりも マイマイやナーチャンのように とっても可愛らしいけれども凄く優しそうな女の子を好んでしまう性格であるのだとご理解ください。
    それから ひょっとしたら私がこの地上で一番苦手にしているかもしれない 同学年の女性ですが 彼女はペットとしてフェレットを飼っておられたので 患者さんとして何度が病院に来られていましたけれども 本日お会いするのはやはり数年ぶりかもしれません。もう一人私と同じ高校出身の女性は ご家族に何か急な事情が起こってしまったらしくて ドタキャンとなってしまいました。とっても残念でした。私の一番仲良しの男性は 勿論機嫌よく参加してくれました。
    私の病院が十二時まで診察時間ですので 一応「仙亭」のロビーに十二時半に集合としておきました。十二時間際に患者さんが来てしまいましたので 慌ててやるべきことを済ませて 後は奥様にお任せしてびょいんを飛び出しました。十二時半ちょっと過ぎに到着して ロビーに駆け込みますと 全員そろって談笑されていました。挨拶をすると 早速「予想以上に太っているなあ」といきなり突っ込まれましたが 事実ですから否定の仕様がありません。この歳になりますと 見てくれを気にしても始まりませんが やはり健康の為にも 長生きできるためにも もう少し痩せるべきだと 皆さんから注意されてしまいました。お説ごもっともですから 本気で痩せる努力をしようと考えました。
    一時からレストランに入り食事を始めました。
    私は午後から仕事がありますので 車で参加しましたから ウーロン茶にしましたが 皆さんはビールで乾杯して食事会が始まりました。みんな還暦に近い年齢ですから 私は老後の身の振り方 楽しい老後の計画で話が盛り上がるのかと思いましたが 男性陣は 日本生命とシャープと言う一流企業を勤め上げてこられたお二人でしたから 年金もたっぷりと期待できるご身分ですから 定年を迎えたら すぐにでものんびりされるのかと思っていましたが 二人とも年金の受け取れる65歳までは 少なくとも再就職して働くつもりなのだそうです。
    生保と家電メーカーと畑は違いますが 日本人なら誰もがその名前を知っている一流企業で新卒から定年まで勤め上げたのですから 退職金もかなりの額でしょうし 厚生年金が手厚いはずですから 月々の年金支給額も相当な金額になるはずなのに やはりサライーマンの習性が身についてしまっているからなのかもしれませんが 当面は正社員として働いていたいのだそうです。私があと数年で病院を売りに出して買い手が見つかったら 引退するつもりであることを打ち明けますと 皆さんから驚かれてしまいました。
    奈良の友人はシャープに勤めていますが この会社は台湾人のオーナーになりましたので かなり辛い思いをしているのではないかと心配していましたが 定年間際の立場でありますから ポジションはそれまでと変化したのだそうですが それなりに毎日するべき仕事を与えられ 忙しくやっているみたいなのでホッとしました。私の苦手な女性は 現在大学で実学的な経済学の講義をしている先生なのだそうです。私は仕事をリタイアしてからの計画でいかに節税するかを真剣に考えていますから 色んなことを質問してアドバイスを頂きました。マイナンバー制度についても 私は結構不安を抱えていたのですが 極普通に手続きをしておけば それほど困った事態にはならないらしいと教えて頂きました。
    互いの近況や共通の友人の現状などについて いろいろと話が盛り上がり あっと言う間に二時間以上が経過しましたので 名残は惜しいのですが 一応お開きと言う事にしました。次回のお食事会も是非開きたいので 私の苦手な女性に幹事をお願いして 解散しました。私は奈良から参加してくれた男性を自宅まで 私のオンボロ往診車で送り届ける約束をしていましたので 二人で出発しました。以前のブログで書きましたが この友人の自宅には一度訪ねて行ったことがあります。しかし結構ややこしい道を通るので 一人では病院までの帰り道が不安だったので 途中で奥様を拾ってから友人宅へ向かいました。友人と奥様がこれまでにも何度も会ったことがありますから 顔見知りの仲です。
    私は一度訪ねたことがありますが 友人宅へ向かう道順がサッパリわかりません。奥様は友人と帰り道について どの道を通るのが近いのか とか空いていそうな道はどっちだろうかなどと 楽しそうにディスカッションをしていましたが 私は全く参加できませんでした。ほどなく友人の自宅に辿り着きました。時刻は既に四時半でしたので すぐに帰途につかなければ五時からの仕事に支障が出ますが 丁度友人の奥様も帰宅されたみたいでしたので 一寸だけお邪魔してコーヒー一杯ご馳走になりました。友人の奥様とは私は勿論奥様も仲良しだったので ついつい話し込んでしまって誤字を回ってしまいましたので 慌てて帰途につきました。夕方の車が混む時間帯でしたが 何とか五時半ごろには病院に戻りましたので 急いで病院を開きました。少ししたら患者さんが来院されましたが 何事もなく診療してお帰りいただきました。
    やはり仕事の合間に大事な予定をさしはさむと バタバタしてしまいましたが 楽しくて充実した一日でした。旧友と親交を深めることは ある意味年寄りの特権かもしれません。私も還暦を迎えてしまうと 奥様から「ジジイ」呼ばわりされても言い返せなくなってしまうと覚悟はしていますが 旧友と昔を懐かしむというのは とても楽しい事なので 会えるうちに旧友との親交を温める機会を大切にしていこうと思います。先日 高校の同窓生から来年にでも自分たちの学年の還暦同窓会を開きたいので 連絡してほしいとの手紙が届きました。喜んで自分の現在の情報をメールで送りましたところ お礼のメールが返ってきました。出来たらこの同窓会にも参加して 懐かしい友人たちとの再会を果たしたいと考えております今日この頃です。

  • 11月4日 テレビの修理をしてもらいました

    病院の二階の私が生活しているスペースにおいてあるテレビが 液晶テレビなのですが 購入してから三年を過ぎていますけれども 最近徐々に画面の右上の辺りが何となく暗くなってきました。その暗くなっている部分がだんだん大きくなってきましたので 普通にテレビを視聴するときに 目障りになってきました。それに暗くなっている部分が徐々にではありますが確実に大きくなってきていますから このままではますます見えにくくなってしまいそうです。
    購入した時の保証書をみると 五年間は無償で修理してもらえると 書いてありました。修理自体は無償かもしれませんが 出張してきてもらう訳なので 恐らく出張料ぐらいはかかると思いますが 修理をお願いしてみようと考えて 取り敢えずは購入したお店に電話をかけてみました。お店の方の話によると ひとまずそのテレビのメーカに連絡を取りますから そちらに具体的な問題点などを相談してください とのことでした。しばらくしたら そのメーカーの修理担当の方から電話がかかってきて テレビの現状を説明しました。同時に購入したブルーレイの再生と番組を録画する装置も動かなくなっていましたので そちらの修理もついてにお願いしました。
    電話を一昨日にかけましたら 本日早速修理にやって来てくれました。時間帯として午前中をお願いしていたら 朝一番で九時過ぎには男性が二人も訪ねてきてくれました。早速テレビの状態を確認してもらうと どうもテレビの画面自体の交換が必要なのだそうです。今どきの薄型テレビは 薄型の画面とそれを固定するための足場が殆ど全てですから 画面を交換するという修理は 殆どテレビ自体を新品と総取り替えしてもらうようなものです。なんだか申し訳ないような気がしますが 細かい部品を分解して交換するのにかかる時間と労力を考えると 総取り替えしてしまう方が効率的なのだそうです。
    ブルーレイののレコーダーの方は どうもデーターを貯めておくディスク自体が 完全に壊れてしまっているのだそうです。こちらは交換するディスクを持ってきていないそうなので いったん持ち帰ってディスク交換をしてから もう一度届けてくれることになりました。こちらも勿論無償ですが 残念な事に録画されていたデーターは 取り出せないので消えてしまうのだそうです。ナーちゃんがソロ曲をとってもチャーミングに歌っている 凄く貴重な映像が失われてしまうので 非常に悲しいのですが 致し方の無い事のようです。
    昔は電化製品が壊れた時には 修理してもらって再利用するのが当たり前でしたが 最近では電化製品の品質が向上したためか 保証期間内に故障することは殆どありません。ですから故障した時には 勿論修理代がそこそこかかってしまいます。購入した時から そこそこの年月が過ぎているわけですから 当然技術は日進月歩で 電化製品も相当に便利で使い勝手が良くて 更にはランニングコストも抑えられていますから 買い直した方が故障した古い製品を修理してもらって再利用するよりも賢明であるように思います。
    ですから 私のテレビは 別に無茶な使い方をしたわけではありませんが 保証期間内に不具合が発生してくれて 無償で殆ど新品と交換してもらえたわけなので ラッキーだったのかもしれません。でも世の中バブル期の どんどん使い捨てる時代ではありませんから 大切に使って 修理できるものならなるべく修理して 使い込んでいくことが大事になってきているのかもしれません。

  • 11月3日 1521年の本日 武田信玄が生まれました

    武田信玄は 私が戦国大名のうちで 最強の軍団を率いていたであろうと認識していますので 単純にその強さへの憧れから 一番好きな戦国大名です。武田家は本来甲斐源氏の嫡流でありましたから 甲斐一国を治める正式な守護大名でしたから 家格としては 名門と言えますが 先先代の頃に 国内で力をつけた家臣たちがのさばり出して好き勝手な行動を取りました。先代 即ち震源の父親の代に甲斐の国を武力で取りまとめましたから 戦国大名ともいえるのかもしれません。
    信玄のイメージを貶めているのが 実の父親の追放 と言う事実かもしれませんが 正室との間にできた二男を可愛がり過ぎた父親との確執と言うのは 戦国時代にはザラにあった出来事かもしれません。信玄の父親は バラバラになってしまった国内を統一する と言う武将としての能力は 高かったのかもしれませんが 家族の気持ちをまとめて統率する能力に欠けていた と言えるのかもしれません。実の子であり ましてや長男でもあった信玄を 跡取りとして育てられなかったのは 後の信玄の活躍ぶりを考慮すると 人を見る力がなかったために 身内から追放されてしまう と言うある意味武士としては一番情けない人生の結末ですから 悲しい出来事ですが 自分の判断ミスですから致し方が無かったのかもしれません。
    信玄が家督を継いでから 積極的に領土を拡大していきましたから 武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達していたのだそうです。その時点で 武田家は領土の規模からみても その軍団の勢力と実力からみても 日本最大の戦国大名と言えたのかもしれません。但し領土を目いっぱいに拡大してしまったために 東には北条、北には上杉、南には今川や徳川 と言った実力のある戦国大名に囲まれていましたから それらの国と争ったり 同盟を結んだりしながら 何とか均衡を保つのが精いっぱいだったのかもしれません。
    それにしても 自尊心の非常に強い織田信長が 信玄にだけは絶対に敵わないことを 十分に自覚していましたから 自分の娘を人質として差し出したり こまめに高価な貢物をして 盛んにこびへつらっていた位ですから 当時の一般的な認識としては やはり信玄が最大にして最強の戦国大名であったと言えるのかもしれません。信玄の不幸は 生まれついた国が京都から非常に遠い甲斐の国であったことのように思います。
    今川義元を織田信長が倒して 今川の勢力が落ち込み 北条氏政が三杯汁で知られるたわけ者でしたから その隙をついて上洛しようとした道中で 取り敢えずは徳川を叩きのめして 続いて織田を蹴散らす寸前に病に倒れ命を落としましたから 何とも残念な結末だと思います。信玄は信長とは異なり 伝統と格式を重んじる性格でしたから 歴史を語るうえで「たら」「れば」 は厳禁ですが もしも信玄が信長をも蹴散らして上洛していれば 恐らくは室町幕府があと何代か続いていたように思います。勿論そうなれば 徳川の時代が来ることは永遠になくて現在とは全く異なる日本になっていたように思います。
    信玄と並び称される上杉謙信は 非常にストイックな性格で 大名ですから 若いぴちぴちの女性を抱きたい放題の立場にあったのに 生涯女性に触れることがなかったのだそうです。立派と言えば凄く立派なのかもしれませんが 謙信が凄く優秀な武将であっただけに その遺伝子を受け継いだ後継者がいれば 養子の景勝のような無能な男が後継者にならなくてすんだはずで やはり戦国時代の結末は大きく変化していたように思います。大名にとっては 血のつながった後継者を作ることも非常に重要な仕事の一つのはずですから やっぱり謙信は 己を高めることに凝り固まりすぎて 一番安易な欲望 性欲を断ち切ったのだと思いますが 好きにはなれません。
    私の様に煩悩が強すぎると 還暦まじかになった現在でも 乃木坂のメンバーを抱きたくて堪りませんから 正直恥ずかしいのですが 人間なんてそんなものでしょう。そんな意味でも結構子だくさんの信玄の方が好感が持てます。結末としては残念な形ですが 領土を拡大して 強力だ軍事力を確立した戦国大名としての生きざまは 凄くカッコよくてあこがれてしまいます。

  • 11月2日 欅坂46のステージ衣装にクレームがつきました

    詳しいことは知りませんので どんなステージで着用していたどの様な衣装であるのか私には 分りません。ただその衣装が ナチスドイツの軍服をモチーフにしているのではないか とクレームがついたのだそうです。それに対して 欅坂を運営している人たちが直ちに平謝りに謝ってしまったのだそうです。ナチス・ドイツとは、アドルフ・ヒトラーの率いた国家社会主義ドイツ労働者党による独裁政権を意味していて 1933年から1945年までのドイツ国の名称であるのだそうです。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家であり ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍に敗北し、ナチス・ドイツは滅亡したのだそうです。伝聞調の表現が続きますが 私が生まれる大分前に出現して 滅亡してしまった組織ですから しょうが無い事とご理解ください。
    私はヒトラーと言う人間について 別にここで論じるつもりもありませんし さして興味を持つ人物でもありませんから 勿論弁護しようという気持ちもさらさらありません。只 たまたま首相に任命されてその後とんとん拍子に話が進んでしまって たまたまドイツの全ての権力を掌握してしまう総統になってしまい 時には非人道的な道を 突っ走ってしまったがために 特に反ユダヤ主義に基づく虐殺などは 到底許されるべきことではないと思います。
    以前にテレビのドキュメンタリー番組で知ったことですが アメリカ人の極一部の方の認識かもしれませんが 二十世紀の極悪人として 一番最初に名前が上がるのがヒトラーなのだそうです。但し二番目に名前が上がるのが日本の昭和天皇であることを 辛い事ですが知っておくべきかもしれません。勿論この認識が 全てのアメリカ人に当てはまるのかどうかは知りませんが 少なくともある地域の ある年代のアメリカ人の認識であるのは間違いない事のようです。第二次世界大戦は 日本が唯一負けた対外戦争であり 日本人にとっては一番つらく悲しい出来事かもしれませんが 対戦したアメリカにとっても かなりしんどい出来事であったのかもしれません。この戦争の時に 色んな事情があってのことだとは思いますが 日本はドイツ イタリアと三国軍事同盟を結んで ともに戦ったのです。
    ナチスドイツは 日本の友軍なのだと言う事を 日本人は忘れ去っているのかもしれませんが 厳然たる事実であることは知っておくべきことだと思います。たとえどんな理由があろうとも 武力によって国と国と争いごとに決着をつける戦争と言う行為が 悪い事であるのは 正真正銘間違いの無い事だと思います。そして日本が引き起こしてしまった太平洋戦争において 近隣の国々に多大なる迷惑や損害を与えてしまったことは 決して忘れてはならないことだし 大いに反省すべきことだと思います。
    しかしこの敗戦によって 日本が取り返しのつかない位の腰抜け国家に成り下がってしまったことも間違いない様に思います。戦勝国が戦勝国の都合で押し付けた日本国憲法 を後生大事に守ろうとして 戦争放棄などと眠たい事を唱えている憲法をありがたがる気持ちから 日本の大切な国土を 中国や韓国に散々踏みにじられているのに この問題を直視しようともせずにやられたい放題 言いたい放題の状況に全く反発せずにこうべを垂れているのですから 情けなくて涙も出てきません。
    話が大分横道にそれてしまいましたので 戻してみます。要するに私が言いたいことは 確かにナチスドイツ自体は 悪名がとどろいていますから 良いイメージを持ちにくいのは分りますが 日本国の友軍だったのです。味方だったのです。助け合って戦争をしていた仲間の軍隊なのです。そしてドイツ軍と言うのは最終的には 連合国軍に敗れ去りはしましたが 一時期はヨーロッパのかなりの部分を占領した 優秀であり強大な軍隊であったのです。ドイツ軍の誇ったティーガー戦車は スタイルもカッコいいし その装甲や火力、機動性などいろんな面で第二次大戦当時としては最強の戦車だったと思います。小学生の頃にプラモデルの戦車を学校で走らせることが流行りましたが 私はプラモデル作りが正直苦手でしたけれども ティーがー戦車だけは大好きだったので 必死に頑張って作り上げて学校へ意気揚々と持って行ったのを覚えています。
    またまた話が横道にそれてしまいましたが 要するにナチスドイツ軍は 日本の友軍 仲間の軍隊でありましたわけだし 凄く優秀で強かったのです。その軍服を忌み嫌うというのは 大日本帝国軍の軍服を否定することに通ずると思います。欅坂の衣装を考案したスタッフが 本当にナチスドイツをイメージして作ったのかどうかさえはっきりしていないのに ましてや日本の友軍であった優秀でとても強かった軍隊の軍服に雰囲気が似ていた位の事で 文句をつける人間の浅はかさには 本当に呆れ返ります。そして 批判されたからと言って 事の真偽さえ明らかにしないで(本当にナチスドイツの軍服に似せて衣装を作成したのか否か) そしてもしナチスドイツ軍の軍服をイメージして作ったのであっても かつての日本軍の友軍の軍服をイメージすることがどうして悪い事なのか 謝罪をしなければならないような事なのか きちんと議論して ファンに説明して それでも欅坂ファンの気持ちが不快であったのなら 真摯に受け止めて 大いに反省して 今後の活動に生かしていくことを表明すべきだと思います。
    他人の行動を批判することは 簡単な事ですが もし自分の批判に確固たる信念があるのなら 批判者は自分の名前と住所位は明らかにしてから 意見を述べるべきだと思います。自分の身分を隠しておいて 他人の悪口だけ表明するなんて 本当に情けない腰抜け野郎だと思います。そもそも日本国が 領土を踏みにじられているのに 知らない顔をしているから このような腰抜け野郎たちが大きな顔をしてのさばるようになってしまったのだと思いますから、アベチャンが当分は政権を担うのでしょうから 毅然たる態度を期待したいと思います。でも無理ですよね。

  • 11月1日 本日は二か月ぶりに自分のための病院に出かけましたが 事件が起こりました

    このブログには何度も書いていますが 私は来年還暦を迎える年齢であり 凄く太っていますので 恥ずかしい話ですが 心臓病と糖尿病を患っております。その為に大体二か月に一度枚方公債病院の循環器内科で診察を受けています。具体的にすることは血液検査を受けてから 血圧を測定して 待合室で順番を待ち 名前を呼ばれたら 診察室で先生と対面します。簡単に問診を受けて 血液検査の結果によって 先生からその時の診断を伺います。
    私は不整脈がありまして その根治を試みましたが 完全にはなくなりませんでした。従って 血液に血栓ができやすい状態が続いていますので ワーファリンと言う血液をサラサラにして 血栓ができにくい状態にする薬をもう何年間も飲み続けています。ワーファリンはかなり昔にできた薬ですが 優れた効果がありますので 現在も服用している人は沢山いるみたいです。血液をサラサラにする薬としては もっと新しい薬も開発されているようですが 新薬ですから勿論価格がかなり高いみたいです。一時的に飲む薬ではなくて ある意味死ぬまで飲み続ける必要のある薬ですから 価格の安い古い薬を私は選択して飲んでいます。但し ワーファリンを飲んでいると 青汁や納豆が禁止されてしまいます。青汁はともかく 私は納豆は毎日でも食べたいくらいの好物でしたので 辛くないといえば嘘になりますが 薬はいずれ価格が下がりますので 新薬の価格が下がるまでは辛抱しようと考えています。
    糖尿病については 血糖値をなるべく低く保たなければなりませんが 私はこの歳になっても 全く食欲が衰えません。ある意味ラッキーなのかもしれませんがお酒を全く嗜みませんけれども その分甘党なので 甘いものが大好きです。甘いものは血糖値の大敵ですから これもまた辛抱しなければなりません。でも長生きはしたいので 摂生に努めるほかはありません。現在の所 有難い事かもしれませんが 心臓病も糖尿病も自覚症状が全くありません。でも逆に考えると 自覚できる症状が全然ないのに 辛抱しなければならないことはよけいに辛い事でもあります。ですから病院で検査を受けて診察してもらった直後は少しの時期だけ 辛抱を緩めて 食べたいものを満足できるだけ頂く時期があります。
    しかし病院に行く日の一か月ぐらい前からは 炭水化物を一切取らないように心がけた食生活をおくります。勿論仕事である程度体力は使いますから タンパク質を中心に考えて しっかりと食べてはいますが 血糖値の上がりそうなものは 極力避けるように心がけます。今回もかなり頑張りましたが 血糖値をしめす指標となるヘモグロビンA1cの値は6.6でした。前回が6.8ですから 少しだけ下がりましたが 目標は6.5を下回る事なので なかなか達成てきていません。先生からは 一応7.0を下回っていれば 合格点ですよと 慰めて頂きましたが 今回はかなり頑張ったつもりだったので かなりガッカリしました。
    聴診してもらって 血圧を報告して 診察が終わりましたので 診察室を出ました。奥様が待合室に座っていて にっこりと笑顔を見せてくれました。奥様のアパートはこの病院のすぐ近くで 本日はトリミングの予約が入っていなかったので 自宅でのんびりして頂きましたが 夜の診察時間にホテルで預かっている犬たちを送り届けて頂くために 病院で合流することになっていました。奥様の顔をみたら なんかホッとしたみたいで 頭がぼんやりとしてきました。
    受付でお会計を済ませて薬の処方箋を受け取るためにいすに座って待っていましたが なんだか意識がぼんやりとしてきて そのまま椅子に倒れ込んでしまいました。奥様が慌てて看護婦さんを呼びに行きました。私はゴロンと椅子に横になっていると だんだん意識がはっきりとしてきましたので そのまま起き上がってすぐに帰れると思っていましたが 起き上がるとまた意識が遠のいでしまうようでした。情けないけれども 車いすに乗せられて 処置室に運ばれて そこのベッドに横たわらせてもらいました。
    また完全に横になっている状態の時には 意識がはっきりともどってきましたので 私はすぐに帰れると主張しましたが 一応かかりつけの先生の診察を受けてから と言う事になり 先生が来られるのを待ちました。その間何度か血圧を測りましたが 上が100を下回り 下が50前後でした。私は太っていますから 普段から血圧は高めなのに この時には極端に血圧が低下していて 一時的に貧血状態に陥ってしまったようです。
    先生が診察に見えたので ベッドに腰掛けて応対をしていましたが やはり起き上がってしまうと 意識が遠のく状態でしたので 先生の判断で点滴を一本投与して頂くことになりました。約一時間ほどかかりますが 午後の診察時間には何とか間に合いそうだったので 急いで治療してもらう事にしました。500mlほど静脈に流し込んでもらいましたので 血圧も少し上昇して 上が100を超えるぐらいには回復してきました。ベッドに腰掛けて話していても頭がしゃんとしていましたので 何とか車まで歩いて移動して 運転は奥様にお願いして病院に戻りました。普段なら 病院の受付のカウンターの椅子に座って 患者さんを待つのですが さすがに長時間座っているのはしんどかったので 二階で休んでいて 患者さんが来院した時だけ 病院におりました。幸い患者さんは 犬三匹のワクチンをうちに来られた方だけでしたので 診察はいつもよりも短めに切り上げて 注射をしました。証明書の発行やお会計は奥様にお任せして また二階で休ませてもらいました。
    本当なら 病院に出かけた夜は 奥様と何かおいしいものを食べに行く予定でしたが 体調がすぐれませんから諦めました。私は普段から血の気が多くて 血圧が高い目の人間でしたから 貧血で学校の朝礼の時などに 倒れる人の気持ちが全く理解できませんでしたが 今日貧血の人の気持ちが分るような体験をしましたから 周囲の人に心配と迷惑をかけてしまいましたが ある意味いい経験をさせて頂きました。いつも自分の病院で 検査を受ける前に極端に摂生してしまいますので 今回のような緊急事態になってしまったのだと思います。これからは 検査の直前に極端な事をしないで済むように 日ごろからの摂生を心掛けようと思いました。

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