6月22日 本日はボウリングの日なのだそうです

1861年6月22日、長崎の大浦外国人居留地に日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリングサロン」が開設されたことにちなんでいるのだそうです。想像していたよりも 凄く日本のボウリングには歴史があるのかもしれません。私が初めてボウリングをやってみたのは 小学校の三年生の時でした。近所に住む叔父さんに連れて行ってもらって それこそ点数の計算の仕方やボウルにどの指を入れるのかから 教えてもらいました。当時は スコアシートに自分で点数を計算して記入するのが当たり前でした。生まれて初めてのゲームで 百点以上出ましたし 三ゲーム目には百三十ぐらいが出ましたから 私とこの競技はもともと相性が良かったのかもしれません。
その後ボウリングブームがやってきて ボウリング場についてから 実際に投げられるまで 特に土日だと かなり待たされるのが当たり前の時代がやってきました。中学生の頃に 時々クラスの友達と一緒に出掛けました。平日の昼過ぎでしたから それ程待たずにできました。それまでボウリングと言うのは ゲームと言うか 遊びの一種だと思っていましたが クラスの友人で スポーツの得意な子 運動神経の優れた子が上手であり高得点を出していましたから その時に改めてボウリングと言うのは スポーツであることを認識しました。
とにかくボウリングは その時代人気がありましたから テレビでもゴールデンタイムに ボウリングの番組が放送されていましたし 強いプロボウラーは 凄く人気がありテレビのコマーシャルなどにも登場していました。ボウリングをテーマにした マンガやドラマも放送されていましたから プロボウラーと言う職業は 一時的には凄く人気のある職業になっていたようです。まあブームと言うのは いずれ終りを迎える訳で 私が高校に上がったころには ボウリングを好きな人は続けていたのかもしれませんが 私はボウリングとはほとんど無縁の生活になりました。
大学に入って 参加したサークルが混声合唱団でしたが そのうちの仲の良いメンバーにボウリング好きがいましたので 暇な時にちょくちょくボウリングをするようになりました。やるからには 人よりもいい点数が出したいので 教則本のようなものを買いこんで 一寸だけ研究してみました。レーン上には スパッとと言う目印がありますから 自分が投げ始めるときの足の位置を 決めて出来るだけ同じフォームで決めたスパットの上をボウルを通過させてやれば ほぼ同じコースに投げる事が出来ます。あとはそのレーンのコンディションにあわせて微調整してやれば ほぼ投げたいコースに投げられることがわかりました。
所謂スパットボウリングと言うものを 未熟ながらも目指して取り組めば コンスタントに百五十以上のスコアが出せるようになりましたので 何時も行くボウリング仲間の中では 大きな顔が出来ていました。ボウリングの腕には多少なりとも自信がありましたので 大学の四年生の時の化学科の研究室を選ぶときに 勿論高分子化学と言う学問に興味があったし 授業を受けて 林 あきらと言う教授にも好感を持っていましたし この研究室は 教授を筆頭に皆ボウリング好きで 暇さえあればボウリングに出かけていると言う評判の研究室でしたので 高分子化学研究室に入りました。
別名ボウリング研究室と言われるぐらいですから 同じ学年の学生も 大学院の先輩たちも そして林教授も ボウリングの腕前はかなりのものでした。教授は 恐らく五十代であったと思いますが 頭髪もかなり薄くなっている風貌でしたが ボウリングの腕前は 十ゲーム投げてアベレージが170前後でした。学生たちも 皆ボウリングがやりたくてこの研究室に集まったような連中でしたから 教授とスコアでは引けを取らないような猛者ばかりでした。
但し女の子は そんな評判を知らずに純粋に高分子化学を研究したくて やってきているようでしたが 一旦ボウリングとなると みんな同等に扱われます。毎週二回外書購読のゼミがありましたが その後は全員強制参加で ボウリング場に直行しました。この研究室には ボウリングに関して厳しいおきてがありました。一回に少なくとも十ゲームは投げる事。そして初めてその人が二百点アップした時には みんなからお祝いにジュースをおごってもらう。但し一度二百点アップした人が もし百点以下のスコアを出した時には その場にいる全員にジュースをおごらなければならない というものでした。誰かが絶不調になり 百点を割りそうになった時の嫌がらせは かなり露骨なものがあったように思います。
ボウリングをやりたくて集まっている連中にしてみれば 一度に十ゲーム投げることは 当たり前の事ですが 普通の女の子なら ボウリングの経験はあっても 一度に二三ゲーム投げればいい方だと思います。所が この研究室の教授を筆頭とするメンバーは そんな女の子に対しても 一切情け容赦ありません。最初に投げる順番が決まると レーンが投球できる状態になると 半強制的に投げさせられるのです。十ゲームなんて絶対に投げられないと 女の子たちは言いますが みんなが極当たり前の様に淡々と投球を繰り返す流れにくみこまれてしまうと いつの間にか十ゲーム投げ切ってしまっていて 自分たちでも驚いていました。
私は そこまでボウリングにのめり込みたくなかったので 毎回 靴を借りて ボウルはボウリング場に置いてあるハウスボウルを使用していました。私以外の男性陣は 教授を筆頭に勿論マイボウル、マイシューズで投げていました。とにかくこの研究室では 成績が優秀な学生よりも ボウリングのアベレージが高いものの方が 優遇されている不思議な部屋でした。私もこの研究室に来るまでは ボウリングに自信があったのですが みんながあまりに好スコアを連発するので ブービー賞争いを演じることが多かったです。でもこの研究室の暖かくて楽しい雰囲気は とても居心地がよかったので それなりに充実した研究が出来たように思います。 
卒業してから 塩野義製薬に三年弱務めましたが 金澤と富山にいた時期は 私が一番ボウリングにのめり込んでいました。サラリーマンですから土日は休みでしたが 金澤 富山のボウリング場は土日の朝八時から十時までは一ゲーム百円で投げられました。その為ボウリング好きの連中が こぞって大集合していました。私も毎週土日の朝から十ゲーム以上投げていましたから 月に百ゲーム以上は投げていました。つまり年間で言うと千ゲーム以上投げていましたから アベレージも当然上がって 月間アベレージで180を超える月も珍しくありませんでした。
塩野義を辞めてからは 殆どボウリングとは縁を切りました。現在は 若い方の間で多少はボウリングの人気が出てきているみたいですが 私は恐らく今後もボウリングをすることはないだろうと思います。一度180位のアベレージを出していた私が 現在真剣に投げてもどれだけのスコアが出せるか 自信がありません。不細工なスコアを出して 自分の老化を自覚したくないのが正直な気持ちかも知れませんが 私の周囲でボウリングを頑張っている人間は皆無なので 誘われることなないでしょうし また始める事もないと思います。ボウリングの日にちなんで 私のボウリングとの関係について書いてみました。

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