1月22日 本日は松平康隆さんのお誕生日です

松平さんは既に2011年の大みそかにお亡くなりになられていますから 若い年代の方はあまりご存じないのかもしれませんが 私たちの年代の人なら知らない方は殆どいらっしゃらないぐらいに有名な方だと思います。

男子バレーボールの監督を務められた方です。東京五輪ではコーチとして参加されて銅メダルに貢献され、メキシコで銀メダル、ミュンヘンで金メダルを監督として取り日本の男子バレーの全盛時代を築かれた方です。監督としてはミュンヘンで退かれましたが その後も日本バレーの中枢の役員をお亡くなりになられるまでずっと勤められた方です。

選手としてはまだ9人制の時代に活躍されましたが いち早く六人制バレーを学ぶためにロシアに留学までされたので 六人制バレーのオーソリティーとして若いうちから指導者になられました。私がちょうど中学生の頃にはバレーボールが異常なくらいに人気が盛り上がりました。社会人の日本リーグは 公式戦をゴールデンタイムに放送していました。スター選手はアイドル並みに人気がありました。オリンピックに向けて アニメーションで各選手を紹介する番組まではじまりました。

また日本人はどうしてもヨーロッパの強豪国に体格で劣るので 身長差を克服するために様々な種類の速攻を編み出しました。かなり複雑な動きを含んでいましたが それによって外国の大男たちが翻弄される姿は 非常に痛快でした。私も中学時代バレー部に籍を置いていたので 見よう見まねでクイック攻撃などを試合で試してみたりもしました。

森田、横田、大古の三エースは特に人気がありました。私もバレー部にいましたから 凄く憧れました。セッターの嶋岡は甘いマスクで女性に人気が高く うちの妹もファンでした。兎に角人気が高くて 全日本の12人のメンバーのフルネームは勿論普段所属している社会人のチーム名まで知っていました。

さて、本番のミュンヘン五輪では予選リーグで日本は全勝してグループ一位で他のグループの二位ブルガリアと準決勝を戦いました。楽勝することが予想されましたが なんと1,2セットを連続して落として窮地に陥りました。

いつもあれだけ切れ味が鋭かった幾種類もある速攻フォーメーションが 「バルカンの暴れん坊」と異名をとるブルガリアには全然効果がなかったのです。その時に素晴らしかったのが松平監督の采配です。普段はベンチを温めているだけで 試合に全然でないキャプテンと揶揄されていた中村や南といったベテラン勢を起用して オーソドックスなバレーボールを展開したのです。自力に勝る日本が 辛うじて3,4,5セットを取り返して ギリギリのところで決勝戦に進みました。

もう一試合の準決勝では番狂わせが起こりました。一位通過したソ連が日本と同じグループの二位の東ドイツに敗れたのです。日本は強豪国の中でソ連とはあまり相性が良くなくて逆に東ドイツには凄く相性が良かったのです。東ドイツは逆に日本を苦手としていて ソ連には分がよかったのです。

どうやらグループ分けも日本に幸いしたみたいで 日本は苦手なソ連とは戦わずに逆に戦いやすい相手である東ドイツと決勝戦でぶつかることになりました。案の定1セットは落としたものの危なげなく勝って 金メダルを獲得しました。まさに松平監督の見事な采配のお蔭だと思います。

ただ残念なことに日本人は外国人に比べて体格的に劣っていますから それ以降は日本バレーにとってつらい時代になっていきました。徐々にバレーボールというスポーツが世界の隅々まで浸透すると イタリアやオランダの大男にはどうしたって敵いません。せっかく編み出した変則的な攻撃も一年もすれば研究されつくして 通用しなくなりました。

松平さんは私が中学校に通ってバレー部で汗を流していた頃に夢を見させて下さった大恩人だと思っています。どうぞ安らかにお眠りください。

 

 

 

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