10月9日 本日は 語呂合わせで塾の日なのだそうです 

私は 自分が生徒として塾に通った経験はありません。中三の夏休みに 一応高校受験を控えていましたので 友人のかなりのものが 二週間ほどの塾が主催する夏期講習みたいなものに通うという話だったので うっかり自宅で親にその話をしてしまいました。うちの両親は 私を信頼していたのかどうかは知りませんでしたが そんなにおしりをたたかれなくても そこそこの成績は収めておりましたので 普段はそちら方面のことで口出しは全然しませんでしたが 時期が時期だったからかもしれませんが 珍しく両親が その気になってしまったので いくつかあった塾の夏期講習から 当時私が気になっていた女の子が通うらしいという情報だけを信頼して 一つの講習会を選び通ってみました。確か電車に結構乗って出かける名前も忘れてしまった高校の教室で授業を二週間受けて 最終日に試験があり 後日試験の成績をもとに親とともに面談を受けたのが 私の唯一の塾体験かもしれません。
費用がいくらぐらいかかったのか まだ子供でしたから 全然知りませんでしたが まあ全く面識のない中学生たちと 同じ教室で これまた全然知らない先生からの授業を受けたのは それなりに刺激があって面白かったです。そこそこ分厚いテキストを使っていましたが 私は当時からけち臭い人間だったので そんなに安くはないであろう授業料を払って参加している以上は テキストに書いてあることは 出来るだけ隅々まで 吸収してやろうと それなりに意欲的に予習をして 授業も普段の学校の授業よりは気合を入れて臨み しっかりと復習までしましたので そこそこ学力は伸びたのではないかと思っています。
その短期講座は 気になる女の子が通っているはずなので 選んだつもりでしたが その情報がガセネタだったみたいで お目当ての女のことは まったくすれ違うこともできませんでした。まあ私が受けた教室にも半分ぐらいは女の子がいて その中にもかなりかわいらしい子が一人いましたので それなりに楽しい毎日だったように記憶しています。勿論 根性なしの私ですから 名前は授業中に呼ばれますから 名字は何とかわかりましたが 勿論その子に話しかけられるわけもなくて どこの中学校の子なのかも全然わかりませんでした。
最初は 中三の夏休みが 高校受験のための準備として重要であることは 勿論自覚していましたので 自力で問題集などを用意して 近所のあまり人がいない静かな図書館にこもって さみしく受験勉強に打ち込もうと計画していました。どうしても家の自分の部屋にいるのでは 集中力が持続しないで すぐにベッドに寝っ転がってしまいそうだったからです。自分で弁当まで作って朝から夕方まで図書館にこもるつもりでしたから それなりに学力は向上したでしょうが やはり見知らぬ同学年の中学生たちから 直接刺激を受けられましたので 塾の講習会に参加してよかっただろうと思っています。特に腰抜け野郎と私は 本番の入学試験も 見知らぬ教室で 見知らぬ人たちに交じって 取り組まねばなりませんから かなり緊張してしまうはずでしたから その面での予行演習にもなったのかもしれません。
私が 塾の生徒としての経験は 中三の夏休みの二週間しかありません。同じ塾から 冬休みにも冬期講習会をするので とのお誘いがありましたが 私は自分なりに自分の弱点を明確にできていましたので 冬休みの間に自分で計画を立てて 弱点の克服に取り組みたかったので あえて一人で近所の図書館にこもりました。ただし その図書館は暖房が不十分だったので かなり寒かったのをぶつぶつ文句を言っていたのをよく覚えています。
一つ目の大学時代は 家庭教師として数人の中学生に勉強を教えましたが 塾の先生の経験はありませんでした。二つ目の大学に通うときには 授業料から生活費まで全て自分でアルバイトして賄うつもりでしたので 安定した高収入を得るために 塾の講師として頑張りました。最初に努めたのは 個人が経営している小さな教室というか普通の民家を 五か所ぐらい借りてやっている塾でした。夕方の六時から十時まで 小6からまで中三 四つの学年に五教科を教えていました。小学校の六年生は 英語の授業を学校では受けていませんでしたが 予習的に中一の教材の半分のペースで教えていました。
小学生は 当然まだガキでしたから 扱いが簡単でしたが 中三のそれも女の子になると 当然おっぱいがかなり膨らんでいる子もいて 気持ちの上では一人前の女ですから あしらうのが難しかったです。その塾では 岐阜市内とはいえ かなり田舎の地域の子たちでしたから それなりに純情だったように思いますが 女の子は一度機嫌を損ねてしまうと ほとんど無視されてしまったりして 苦労しました。逆に 真剣に授業に集中してくれる女の子には どうしても優しくしてしまうので ほかの女の子から 贔屓しているなどと親に報告されて 当然塾の経営者にも連絡が入り 注意されたりしました。授業を自分の意志で 無視して 聞いていない女の子をほったらかしにして 懸命に聞いてくれるこの質問に丁寧に答えるのは 致し方のないことではないかと 自分の意見を述べましたが 小さな塾ですから 生徒が一人抜けるのは大きかったみたいで 結局その経営者とは喧嘩別れをして すぐにやめてしまいました。
そこで 小さな塾のほうが小回りが利くだろうし 自分なりのやり方が実践できるのではないかと考えて あえて小さめの塾の講師を目指しましたが 個々の人間関係が面倒そうだったので 今度は 岐阜駅のすぐ近所に本拠を構える 岐阜市でも一二を争うような大きな塾の講師になりました。大きな塾では 講師も担当科目が決められているのだそうです。中学生相手ですから 英語や数学が 一番教えるのが簡単ですし 生徒からも人気がありそうでしたが 当然それらの科目は やりたい人間が多いでしょうから 競争も激しいと思いましたので あえて何を教えるのか明確でない分 やりたい人が少ないであろうと予想して 国語を担当科目として選びました。
大きな塾ですから 生徒の質もピンキリで 上は私よりも優秀になるであろう生徒も含まれているでしょうし 下はクラスでも落ちこぼれているような子もいました。優秀な生徒は かなり高度な質問をぶつけてくることがありましたので 私もそれなりに文法や難しい言葉の使い方については 勉強しなおして 授業に臨みました。平日は 大学から自転車で二十分以上かかりましたが 授業に間に合うように駆けつけて 一コマ50分の授業を三~四コマこなしました。
授業一コマが2000円の約束でしたので 夕方から入って 一日6~8000円稼いでおりました。この塾では 生徒とは 週に二回 国語の授業の時にだけ顔を合わせますので 個人的な関係がほとんど生じませんでしたので スムーズに仕事ができました。国語の講師は数人おり 一番上の立場のおばちゃんは 国語の教師崩れのまじめで面白みのない授業をするので 生徒からあまり人気がありませんでした。私は大阪から来たおもろいおっさんキャラで 愛嬌を振りまきながら そこそこ実のある内容の授業をしていましたので 生徒からはそこそこ人気があったように自惚れております。
夏期講習や冬期講習は 塾の稼ぎ時の大きなイベントでしたから 私も大学が休み中の時期でしたので 朝から晩まで授業に入り がっぽりと稼がせてもらいました。講習は午前の部と午後の部に分かれていて 各五コマずつありましたから 私は合わせて十コマ すべてに入りました。同じテキストで同じ内容を講義するのですから 一度準備すれば それを繰り返すだけなので 移動も全然ないし 私としては非常に効率が良くて 助かりました。一コマが講習の場合2500円でしたから 一日で二万五千円も稼げたので嬉しかったです。ただ 一日二十コマも授業に入るのは私だけで ほかの講師は一日に五コマが限界だ などとたるんだことを言っていたのだそうです。
私は 獣医学科の学生でしたから 四年生までは かなりバイトにも精を出せますが 五~六年生になると 研究が忙しくて 夏休みもろくにバイトができないと聞いていましたので 四年間で六年分の授業料と生活費を稼ぎださねばなりませんでしたから 必死だったので ほかの講師とは 覚悟が違ったのだと思います。それに同じ授業を十回も繰り返すわけですから 例えば授業の最初の雰囲気をつかむためのギャグなんかも 幾つか用意しておき 受けの良かったギャグをその後の授業では使いました。その授業の一番理解してもらいたい内容の説明に時間をかけすぎると ほかの内容が駆け足で終わってしまったりするので 授業のペース配分なども 最初に二三回の授業である程度把握するための準備運動のようなものだったかもしれません。
確かに 同じ授業を十回も繰り返しますし 中学生とはいえ 三十人近い人間と 真剣勝負を繰り返すのですから 講習の間は 二週間ほどでしたが さすがに体力の限界を感じながら 頑張りました。でも真剣に授業を聞いてくれる生徒がほとんどだったので 優秀な生徒がそろったクラスの授業も 落ちこぼればかりが集まったクラスの授業では どうしてもおもろい話を連発してやらないと 集中力を失くすので それなりに気を使ってしんどかったけれど どちらのクラスの授業も 楽しかったと思います。
そのようにして 私は岐阜大学の四年生まで 塾の講師として精いっぱいアルバイトさせてもらえたので 何とか親からの援助なしで 自力で無事に卒業できましたし 何とか国家試験にも合格して獣医師になることができました。私が獣医さんになれたのは 塾のおかげといえるのかもしれません。私が働いていたころから 数十年が経過しておりますが 今でも中学生相手の塾は 同じように存在しているのでしょうか。あの頃の楽しくて かつ充実感のあった時代が懐かしくなりましたので 久しぶりにまた教壇に立ってみたい気分になりましたが 60歳を過ぎていますので 塾講師として雇ってくれるところはないのでしょうね。残念。

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