11月25日 1920年の本日 戦艦長門が完成しました

戦艦長門は 完成当時は 世界最大の排水量39000トン 主砲の口径41センチを誇りました。それから当時としては 航行速度が26.5ノットと凄い高速を誇っていたみたいです。当時の乗組員の方の実感としては 戦艦の場合主砲の口径や射程距離を中心とした総合的な武装力が一番の関心事の様に思いますが 軍艦乗りの正直な気持ちとしては 戦場に駆けつける航行速度と言うのが その軍艦に乗る時の一番の関心事なのだそうです。姉妹間の戦艦陸奥とともに当時の世界七大戦艦に選ばれていたみたいです。他はイギリスの二隻とアメリカの三隻でしたから 日本は世界の三大海軍国の一つにあげられていました。まあ現実には かなり遅れを取っている三番目だったみたいです。
ちなみに当時 世界の三大陸軍国としては ロシア、ドイツと日本だったみたいです。これまたかなり格落ちの三番目みたいでしたが 日本軍は 海軍も陸軍も世界のベストスリーに入っていたので陸海軍のバランスの取れた軍事国家だったのかもしれません。まあ当時の鉄鋼などの生産量を比較するとアメリカは日本の十倍以上でしたから そんな国に対して戦争を仕掛けるなんてあまりに愚かな行為だったように思います。日露戦争に 日本が運よく勝利を勝利をおさめられたのは 大国ロシアが戦争に本腰をいれる前に 手打ちに持って行けたので形の上では 日本が勝利を収めたように言われているのにすぎません。ロシアから見れば バルティック艦隊を壊滅させられたとはいえ 足の指先を一寸だけ火傷した位にしか 感じていませんでしたから ポーツマス条約で日本の勝ち取れた利益は微々たるものでした。アメリカが戦争に本腰を入れるまでは 太平洋戦争でも 日本の旗色が良いように見えましたが アメリカが本気で軍艦を作り出したら 幾ら局地戦で日本がアメリカの軍艦を沈めても ある程度時間が経てば 物量の差の大きさを痛感させられてしまったのは 当然すぎる事のようです。
話が戦艦長門から離れてしまいましたので 元に戻そうと思います。長門は 太平洋戦争中に大和が完成するまで 連合艦隊の旗艦を務めていました。大和に旗艦を譲ってからも 大切に扱われて あまり戦場に投入されませんでしたから 終戦時には 故障箇所個所は抱えていましたが 何とか無事に浮かんでいられました。只アメリカに没収されてしまい 最後は核実験の目標にされてしまって 沈められてしまうという悲しい結末を迎えてしまいました。
太平洋戦争中に 長門は温存されたともいえるのかもしれませんが 古いタイプの戦艦でしたから 完成当時は 高速を誇っていましたが 新しく建造された軍艦はさらに高速での航行が可能でしたから 足を引っ張るような形になり出番が減少したと言えるのかもしれません。それからこの戦争が始まってからは 大鑑巨砲主義が廃れてしまって 高速で航行できる航空母艦が 海戦の主力部隊になってきていました。航空母艦を中心として 空母を護衛する小回りのきく駆逐艦の出番が多くなり 図体の大きな戦艦の出番は殆どありませんでした。空母の航空機同士が 互いの船団を攻撃しましたから 船団同士が接近して大砲を直接打ち合うような戦闘が起こらなかったのです。
残念な結末の迎え方としては 二番艦の陸奥も同様かもしれません。現在になっても原因が解明されていない事故によって 瀬戸内の海で謎の爆沈したと言われています。子供の頃に 父親が戦艦陸奥のプラモデルを買ってきました。私は細かい作業が苦手で 嫌いでしたので 直ぐに組み立てを諦めてしまいました。父親が 私と違って指先が非常に起用でしたので 日曜日のたんびに 組み立てて完成してくれました。結構大きなプラモデルでしたので 当時はこうりだんちの2DKに住んでいましたので かなりかさばりましたが 箪笥の上の見えやすい場所に飾ってありました。その為に私は 一番艦のながとよりも 二番艦の陸奥の方が 愛着があります。
私が若い頃には 手に入る音楽の音源としては レコードとカセットテープでしたが 現在は時代が変わり うちのステレオでもレコートは再生できないし 勿論カセットテープも聴けません。CDとCDRにアイテムが変化してしまい レコードの登場場面が全然なくなってしまったのは 時代の流れで致し方のない事かもしれません。今どきの若い方にしてみれば レコードの時代があったことは知っていても 実際にレコードを触ったことも見たこともないのかもしれません。病院の三階には 学生時代にせっせと集めた二百枚以上のLPレコードが それなりに思い出がありますので 捨てられずにダンボール箱の中で眠っています。戦場で出番の無くなった戦艦を海軍が大切に保護したのは 無理からぬことの様にも思います。
戦艦大和と二番艦の武蔵は 有名だし アニメの影響もあって ご存知の方が多いのかもしれませんが 長門と陸奥は やはり過去の遺物のイメージがあるからかもしれませんが マイナーな存在のようです。只当時の海軍首脳陣の頭が固くて 大鑑巨砲主義から脱皮できなかったために 殆ど活躍の場のなかった大和と武蔵を戦艦として建造してしまいました。大和の三番艦として建造された信濃は 空母に建造途中から方向転換されましたが スタートが戦艦でしたから 空母としての能力は 大したことがありませんでしたし 実戦に登場する前にアメリカの潜水艦に撃沈されてしまいました。最初から大和と武蔵を空母として設計していれば 日本の海軍戦力はかなり向上したはずですから もう少し長く海軍の活躍する場面が続いたのかもしれません。まあ歴史を考えるうえで 「たられば」の話は禁句ですし 所詮は焼け石に水であるのは 間違いありませんが 長門が引き続き連合艦隊の旗艦として存在して 後世にまで名前が残っていたのかもしれません。

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