2月20日 本日はチェルニーのお誕生日です

1791年の本日 ウィーンでカール チェルニーという ある意味とても個性的な生き方をした作曲家が生まれました。チェルニーと言う名前をきいても ピアノを習った事の無い方にはピンとこないのかもしれません。私は小学校の三年生の時にピアノの練習を始めました。初めて先生の所に出かけた時に 私は幼稚園の頃から マリンバと言う楽器を習っておりましたので 簡単な楽譜は文字を読むように理解できましたので その場でバイエルと言うピアノの一番初心者が取り組む教則本は 初見で弾けてしまいました。
私には二つ年下の妹がおりまして 妹の方が一年ぐらい早くからピアノのレッスンを受けていましたが 初日でバイエルを卒業した私は 直ぐに妹のレベルに追い付き 更には追い越しました。ハノンと言う運指の為の練習曲集がありまして これはいわば指のウォーミングアっプのための曲集で 凄くバラエティーに富み ボリュームがあり 基本的な運指練習の全集のような練習曲集でしたから 毎日のピアノの練習を辞めるまでの十数年間 ずっと練習の始めに取り組みました。曲集の最初のページに この曲集には ピアノにおける基本的な指の動かし方の全てが含まれているので 全曲をインテンポ(設定された速さ)で弾きとおせばほんの二時間足らずなので 練習を始めるときには 必ず全曲を弾いてみるように と書かれていました。
私は別にプロのピアニストを目指してはいませんでしたし 一日にピアノに向える時間も限られていましたから いつも練習始めに 何曲がピックアップして指慣らしに弾いていました。ブルグミューラーやバッハのインベンション等の比較的優しい曲集の練習を始めましたが 割とあっさりと卒業してから いよいよチェルニーの三十番と言う練習曲集に取り組ました。この練習曲集は一曲一曲がボリュームもあり 身に着けるべきテクニックもふんだんにあるかなり手ごたえ 弾きごたえのある練習曲集でした。結局このチェルニーの三十番を卒業するのに二年以上かかりました。やっと最後の練習曲を満足に弾けるようになりましたから チェルニーとお別れできると内心喜んでいました。
チェルニーの練習曲は ピアノを弾きこなしていくための必要なテクニックが しっかりと盛り込まれてはいますが その為にどうしても単調で 弾いていても楽しくないのです。やっと三十番を卒業して喜んでいると 次に先生から渡されたのが チェルニーの四十番と言う練習曲集でした。三十番は三十曲の練習曲から構成されているように 四十番は勿論四十曲の練習曲から成り立っていました。当然ですが三十番よりも四十番の方がレベルが高くて 相当に難しい練習曲ばかりでした。
先生に文句を言ったって始まりませんから 又地道に一曲目から取り組んで この曲集を卒業するのにほぼ四年間かかりましたので 中三の夏休みにやっと卒業できました。そうしたらまたまた先生から渡されたのが チェルニーの五十番と言う練習曲集でした。時期的には いわゆる高校受験の直前でしたし 丁度四十番を卒業して一区切りついたので 一旦ピアノの練習はお休みしようと考えていましたが 先生が許してくれませんでした。
私は香里団地の2DK のせまい家に住んでいたのが 中一の夏休みに やっと一戸建ての広い家に引っ越せました。その為団地のすぐ裏の塔に先生のお住まいがありましたから徒歩二分で先生の所までつけたのに 交野市に引っ越して 自転車を飛ばしても十五分以上もかかるので 三十分のレッスンを受けるのと往復で一時間以上もかかりましたから 受験生としてはかなり重い負担に感じてはいましたが そのレベルまで達するとピアノを弾くことに それなりの楽しさを感じられるようになりましたので 頑張って通い続けました。
それにしてもチェルニーと言う作曲家は その性格がかなりサディスティックにできているように思います。普通 練習曲集のレベルが上がれば 一曲をそれなりに弾きこなすのも大変になりますから 曲数が減少するのが 普通の感覚だと思います。なのに 練習曲のレベルがぐっと高くなるのに その曲集の曲数がどんどん増えていくなんて 私は今考えてもチェルニーの練習曲集の曲数に対する感覚は 間違っていると思います。五十番を渡された時に先生にひょっとして六十番まであるのか尋ねたら あると言われてひっくり返りました。但し六十番はプロのピアニスト用の特殊なテクニックのための練習曲集だから 趣味でピアノを弾いている人には対象外だと 聞いて一寸だけ安心しました。
それにしても五十番の練習曲は更に高レベルのテクニックが要求されるので 一曲を仕上げて先生からOKがもらえるのに二か月以上もかかりましたので 結局中学を卒業するまでに三曲しか先生の次に進んでもOKを頂けませんでした。ちなみにその先生がチェルニーの五十番を指導するのは かなり久し振りの事だと言われました。そのレベルに達するまで練習を続ける教え子はあまりいないのだそうです。ちなみに妹はその頃 既に音大のピアノ科を受験する事を決意していましたので 父がそれなりに苦労したのだとは思いますが なんとかつてを求めて 音大の教授から個人レッスンを受けておりました。但しその時点でも 私の方が妹よりも練習のレベルは高かったように自負しています。
けれどもとっても残念な事に私は勿論 現在と同様に腰抜け野郎でしたから 発表会などのここと言う場面には ミスを連発してしまいます。普段の練習で十回に一回だけミスするような所を 悉く本番でミスしていました。逆に妹は普段の練習で十回に一度だけうまく弾けるような部分をほとんどノーミスで 当たり前の顔をして弾いていました。奥様と言い 妹と言い 私の周囲にいる女性は皆心臓にもじゃもじゃと毛が生えているようです。
高校に上がってからもピアノのレッスンは続けるつもりでしたが 高校の初めての定期テスト つまり一学期の中間テストを受けてみて ショックを受けてしまい ピアノの練習を諦めました。通った高校が四条畷高校で 私たちの受験した年から 学区改正が行われて この高校が学区のトップ校になっていました。つまり普通の中学校なら クラスで一番か二番の出来る生徒ばかりが集まっていました。私は生まれて初めて平均点以下の成績を取ってしまって 相当にガックリと来てしまったのです。勿論普通の高校ですから 部活動を頑張っている生徒も沢山いました。私も趣味としてはかなりのレベルまで頑張ったピアノをやめてしまわなかった方が 反って気分転換になって勉強もはかどったのでしょうが 何の部活動もしないで いわゆる帰宅部で寂しい 思い出の少ない高校生活を送りました。
ピアノは 立命館に通うようになってから 同じ化学科の友人に 私よりもズットズットレベルの高いピアノを弾く子がいましたので その子の影響で合唱団の活動を頑張りながら 懸命に練習した時期がありました。塩野義に勤めていたころも 経済的にはかなり余裕がありましたので ピアノを自分で購入して かなり入れ込んで練習をしたこともあります。但しアパート住まいでしたから 近所から苦情が入ることもありましたが。
そんな事でピアノと言うのは私の人生において 一番長く続けた音楽活動だと思いますが チェルニーの思い出と言えば 毎日単調であり 凄く難しい練習曲を繰り返し弾いていたことしかありません。チェルニーのイメージとしては コンサートピアニストではなくて いわゆる練習曲ばかりを作曲していた ピアノ教師と言う感じでしたが 今回ネットで検索してみると 当時の流行歌に当たるようなオペラの有名なメロディーをアレンジして人前で披露したりして いわゆる芸能人としてかなり人気を博していたそうなので 驚きました。同時期に活躍したシューマン辺りに「チャライ奴だ」と 酷評されたりもしたのだそうですが 意外にも交響曲や協奏曲も作曲しているし 弦楽四重奏曲などは かなりすぐれた作品として評価されているのだそうです。チェルニーが作曲した作品のうちで 練習曲の占める割合はそれほど高くないことを知って驚いています。
私がピアノを習い始めたころから もう五十年ぐらいが過ぎていますが 今でもやっぱりチェルニーの練習曲集は 必須う課題として活躍しているのでしょうか。それとも全然私たちが習い始めたころとは異なる 指導カリキュラムが確立されているのでしょうか。どなたかピアノの指導者でこのブログを読んでおられる方がいらっしゃれば 是非メールでその辺りの事を教えてください。お願い致します。

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