6月26日 囲碁と将棋について思う事

最近 将棋界に藤井君と言う中学生のスーパースターが出現してしまい 凄く注目されていて その人気も高まっているように感じます。私も物心ついた時には 家に薄っぺらい将棋盤と駒がありましたから 父から駒の動き方を教わり 対戦したのが 将棋とのお付き合いの始まりでした。小学生の何年生の頃だったかよく覚えていませんが 誰かが教室に 将棋盤と駒を持ち込んで 男の子同士で対局を楽しむようになりました。
水曜日は 給食を食べたらおしまいで 昼から授業がありませんでしたから いわゆる放課後の教室で 腕に覚えのある男子が集まって クラスの将棋大会が毎週のように開かれました。私も確か二度ほどクラスのチャンピオンになりました。誰かが王将の駒をかたどったペンダントのようなものを提供してくれていましたので クラスのチャンピオンは次の将棋大会が開かれるまで チャンピオンの証として 何時も首からそのペンダントを誇らしげにぶら下げて 生活していました。但しドッジボールをするときには ボールをキャッチするのに邪魔になりますから その間だけは外していました。
うちのクラスで将棋が大流行した時には 当然かもしれませんが 隣のクラスでも同様に大流行でした。隣のクラスでも当然チャンピオンが選出されていましたから その次に起こることは必然的に クラスのチャンピオン同士のタイトルマッチでした。小学生の時の私の学年は 何時も四クラスありましたから 各クラスのチャンピオン四人が集まり学年グランドチャンピオンを決める大会が月に一回ほど開かれました。私は二回クラスのチャンピオンになりましたが 運悪く と言うよりも凄くビビリな腰抜け野郎の私としては 運よくグランドチャンピオン大会には 出場しないですんでいました。もしそんなプレッシャーのかかる 注目される大会に参加しても 緊張しまくって ぼろ負けして恥をさらすのがいい所だったと思います。
そのようにして うちのクラスと言うよりも学年で将棋が大流行した時期が数か月続きましたが 子供は熱し易く また冷めやすいものなので ブームが去ってしまうと ほとんどだれも将棋盤に目もくれなくなってしまいました。私は 服装などでもそうですが あまり流行などには関心がありません。ですから クラスの友人たちの将棋熱が冷めてしまってからも 定石や人気のある戦法についての解説書などを読んで 一人で将棋と取り組んでいました。相手をしてくれるのは 最初に教わった父親しかいなくなりましたが 結構楽しく日曜日の昼過ぎに対戦して喜んでいました。そんな訳で 将棋については一番熱中したのは 小学生の頃でしたが とても面白いゲームの一つだと思います。
囲碁については 塩野義に勤めていたころ いわゆる営業職で 大学病院専門に回る部署でしたので 主に担当したのは 金沢大学と富山医科薬科大学の大学病院でした。先生たちが集まって休憩したり食事をしたりする場所が医局と呼ばれていましたが その時の教授の影響力がとても強く医局には反映されていましたので 各医局ごとに独特の雰囲気がありました。阪神の熱狂的なファンの教授の科の医局は入口に「阪神ファン以外の入室を禁する」と言う貼り紙がしてありました。金澤は どちらかと言うと中日の準地元の様な土地柄でしたから 恐らくは中日ファンの方が多そうな地域でしたが 教授の意向は絶対でしたから みんなエセ阪神ファンを演じていました。私は当時熱狂的な中日ファンでしたが 一応大阪出身なので もっともらしく阪神ファンを演じていました。
とある医局では 教授が囲碁六段(アマチュアとしては最高位)の腕前だったみたいで 医局に碁盤が幾つも置いてあって いつみても先生方が碁を打っていました。やはり一月に一度 その科内での大会が開かれていましたが 当然教授が圧倒的に強いので 毎回優勝しておられました。勿論囲碁には置石と言う実力差を埋めるハンディキャップのつけ方がありますが うっかり頑張りすぎて 万が一教授に勝ってしまったりしたら どんな恐ろしい結末になるかわからないので そこは頭のよく回るお医者様たちですから 上手に教授に花を持たせていました。
そこの科は 私が受け持っていた診療科の中でも特に売り上げが多い重要な科でしたから その医局に長時間居座るには 少なくとも囲碁のルールを覚えておかなければ 上手く話題に入っていけません。囲碁の教則本を仕入れて 必死になって基本的なルールを覚えました。タイトルを持っているようなトップ棋士の名前や人柄についてもチェックして 何とか囲碁の話題にもついていけるように 懸命に準備をしました。つけ刃では あまり気の利いた発言は出来ていなかったのでしょうが 何とかその医局に馴染もうと頑張る努力が認めてもらえたみたいで その科の先生方を食事やお酒の場に誘えるようになり 更に親しくなれて 何とか薬屋の営業としての仕事を果たせるようになりました。
ただ その時はあくまで仕事のためにおぼえた囲碁でしたから 担当が変わってからは 囲碁とも無縁になりました。塩野義を辞めて岐阜大学に通っていたころ 毎週日曜日のおひるにNHKで放送されていた「囲碁講座」のアシスタントの 島田広美ちゃんが それこそナーチャンに匹敵するぐらいに可愛らしくて 私の囲碁熱が高まりました。とはいえ最低限のルールを知っているぐらいの 超初心者でしたから 大学の囲碁部に入ろうとしましたが 何しろ30歳前後の年よりだし 相手にしてもらえるかどうか不安でした。しかし囲碁部の活動している部屋を探して 入口で覗いていたら 女の子の部員が気づいてくれて 招き入れてくれました。
囲碁部には変わり者が多くて 私の様に二度目の大学 と言う変人が既に二人ほど在籍していたみたいで 特に驚かれもしませんでしたし、無論強い子たちは五六段の子もゴロゴロいましたが それこそ大学に入ってからルールを覚えた 私と遜色ないぐらいの初心者も少しだけれどもいるみたいなので 入部したい気持ちを伝えると 歓迎してくれました。自分よりもかなり若いメンバーに 囲碁では実力の違いを見せつけられましたが 逆に土曜日の夜などに集まって麻雀をしたりすると 私の方がずっと経験が豊富な分 優位な立場にいられましたので 何とか精神的なバランスが 保たれていました。
囲碁はそれ以降も面白くてずっと続けていましたが とにかくきちんとやり始めたのが30歳前後だったからか 棋力が全然上がりませんでした。囲碁部に入部したばかりの頃の棋力が 恐らく五級ぐらいと診断されましたが それから数十年経ちますが 私の棋力は殆ど変らない様で 贔屓目に見ても三級がいい所みたいなのです。やはり二十歳前後で覚えた若者たちは 囲碁部で最初に対戦した時は互角だったのが やる気のある子なら直ぐに初段クラスの棋力に上がりますが 私はサッパリ上達しないので あっと言う間に置き石を幾つも置かせてもらわないと まともに戦えなくなってしまって 悲しい思いをよくしたものです。
そんなわけで 私は将棋と囲碁 どちらにものめり込みましたが やっぱり熱中して取り組んでいる時間が 圧倒的に囲碁の方が長い事からも分るように 私の評価としては 囲碁の方が断然面白いです。それに将棋と言うゲームは いろんな国に存在するみたいですが 国によって駒の種類が違いますし 当然ルールも全然異なるようです。それに対して 囲碁は 厳密にいうと日本と中国では微妙に違いがありますが 競技としては全く同じルールにのっとっています。世界的にみて強いのは残念ながら 中国と韓国の騎士たちですが ヨーロッパを中心に世界のかなり広い範囲で共通のルールの下で 楽しまれていますから 野球とサッカー位に楽しんでいる人口も国々も囲碁の方がずっと国際的に楽しまれているゲームだと思います。
将棋界に まだ中学生のスーパースターが現れたことは 日本の将棋界にとって 凄く明るいニュースであることは間違いありませんが 盛り上がるのは日本国内だけでの事です。囲碁界にも同様の若いスーバースターが現れてくれれば それこそ世界に通用するレベルの棋士が出現してくれれば 囲碁界もずっと盛り上がると思いますので そんな明るいニュースを楽しみに待っています。

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