9月21日 1933年の本日 宮沢賢治さんが38歳で亡くなられました

私が初めて宮沢賢治と接したのは 恐らく中学の頃の国語の教科書で 賢治が紹介された文章が掲載されていた時だと思います。日本人なら誰でも知っているはずの「雨ニモマケズ」という詩ともその時に巡り合いました。その当時は「へえそんな人がいたんだ」くらいの感想しかありませんでした。今でも賢治は国語の教科書に教材として取り上げられ続けておられるのでしょうか。

私が最近 過去の偉大な先輩方の人生について考えるときに いつも驚かされるのがその先輩方が 結構若くしてお亡くなりになられている場合が多いことです。宮沢賢治も わずか38歳で亡くなってしまわれました。賢治は詩人であり作家でもありましたが 農学校出身で農業と深く関わりを持った人生だったからなのか かなり偏った菜食主義者だったと言われています。飽食の時代の 過食の申し子みたいな私であれば 菜食主義は健康のために望ましいことなのでしょうが もともとそれほど若い頃から栄養たっぷりの食事とは無縁だった賢治が 菜食主義者となったために その晩年には体力が落ちてしまい 菜食主義が返って死期を速めたのではないかと言われているみたいです。やはり食べる楽しみは 生きる楽しみのうちの相当に大きな割合を占めていると思いますから 適量に注意しながらも美味しいものを食べながら生きていく人生を送りたいものです。

今の若い方も賢治の「雨ニモマケズ」という詩はご存知なのでしょうか。私が一つ目の大学の合唱団で活動をしていた時に 定期演奏会のパート紹介文を書いたことがありました。面白おかしく私の所属していたベースのパート紹介をするのですが 「雨ニモマケズ」のボリュームがパート紹介文にマッチしていたので この詩を下敷きにして 紹介文を作りました。他の三パートを批判したり揶揄したりしながら ベースパートを称賛するなかなかの文章が出来上がり かなり自己満足に浸っていました。所がそのことを先輩に話したら まあ考えることはみんな同じみたいで この詩を下敷きにした紹介文は今までに何度も見かけたことがあると言われてがっかりしたのを覚えています。まあそれ位この「雨ニモマケズ」という詩が皆に知れわたっていたということかもしれません。

悲しく感じるのは賢治が生きていたころに発表された作品はごく一部だけであり 全く無名な詩人、作家のまま亡くなってしまったことです。私は物書きではないので作家の本音の気持ちは想像もつきませんが 詩や小説を発表してそれが評価されて たくさん売れて 収入が増えたり名声を得たりするために作品を生み出している作家は殆どいないと思います。ただ自分の中でこみあげてくるものを作家なら文章で 音楽家なら楽譜という形で作品を生み出しているのだと想像します。しかし賢治が作家としてあまりにも無名であったために 賢治自身もまさか死んで百年近く経っても少なくとも日本人にはその名前といくつかの作品が知れ渡っているなどとは 全く想像もつかない事実だろうと思います。

賢治が亡くなってから生前に同人誌などでともに活動した草野心平によって数々の作品が発表されたために やっと賢治の作品が日の目を見て 脚光を浴びて評価されることになりました。とうの心平の作品よりも 賢治の作品の方がはるかに有名になってしまったのは 皮肉な話かもしれませんが。まあ何にしても 私よりも二十歳も若い年齢で亡くなられた方が 後年にまで残る仕事をされたことは 称賛に値することだと思いますし、それに比べて自分の人生は 後世に残せるものが何一つなくて 情けなくて泣きたくなってしまいます。

私の人生があとどれくらい残っているのか見当もつきませんが 後世にまで残らなくても良いので せめてその場その場で出会った人たちを喜ばせるような行動をしていこうとかんがえておりますので どうぞ皆様よろしくお願い致します。

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