9月27日 大学時代の先輩を尋ねて関ヶ原に出かけました 

私の一つ目の大学 立命館大学の時に参加していたサークル 混声合唱団の二学年先輩が 定年を迎えられて 奥様の実家のある関ヶ原に戻って来られました。この先輩には 立命館大学に通っていたころにもさんざんお世話になりました。所属していた合唱団は 各学年十数名ぐらいで四学年合わせても五六十人の こじんまりとした団体でした。所が 私たちの学年から三十人以上が卒団するぐらいに 急速に大所帯のサークルに成長したのです。
サークルの運営形態としては 三年生が主要な役職を務めて四年生は就職活動や卒業に向けての準備などが忙しいので サークル活動としては 仕事から解放されて楽隠居のような形でした。私たちが一年生として初めてサークル活動に参加した時に チーフマネージャーとして活躍されていたのが この先輩なのです。文科系のサークルですから 体育会系のサークルほど 上下関係も厳しくありませんでしたし 何しろ混声合唱団でしたから クラスにはほとんどいない女の子が 部室には何時も沢山いましたから 見た目には華やかで和やかな雰囲気でした。
ただ 体育会系ほど厳しくはないにしても それなりに歴然とした学年による上下関係はありましたし 女の子が沢山いるだけに 男女間の細かな人間関係のもつれなど いろいろあったみたいで 長続きしないで辞めていくメンバーも 過去には続出していたみたいでした。その為に入団するメンバーは毎年そこそこいたみたいでしたが 卒団するまで続けるのは十数名になってしまっていたのかもしれません。
所が 私たちの学年は 悩み事を抱えると 皆この先輩に相談しました。この先輩は普段から優しくて 包容力が凄くあったので 誰もが自然とその先輩に相談したのだと思います。勿論私も 本当なら三年生が務めるはずの役職チーフに二年生から就いてしまいましたから かなりたくさん悩み事を抱え込んでいましたので 頻繁に先輩の下宿を尋ねては相談にのってもらっていました。そんなわけで 結果的に私たちの学年は卒団したメンバーが三十人を超えていましたが こんなにたくさん卒団出来たのは 殆ど全てこの先輩のおかげと言ってもいいように思います。
教祖様の教えに導かれる信者のような存在が沢山いて まるで石田教と言う新興宗教団体のような感じでした。この先輩の影響力はものすごくて 役職を引退された四年生の時の一年生 つまり私たちの一つ下の学年にも信者が続出して そのために卒団生が三十人を越えました。
そんな事で 私は個人的にも立命時代にもさんざんお世話になってしまいましたが この先輩との御縁はこの後もまだまだ続くのです。私が塩野義製薬に就職して数年で辞めて 獣医師になるために岐阜大学に進学しましたが 丁度その頃に先輩がサラリーマンでしたが 勤務地が岐阜になって 岐阜市内にお住まいだったのです。何しろ岐阜大学時代は 経済的に独立して親からの支援を受けずに頑張っておりましたので とにかく貧乏学生だったのです。お金がなくてお腹が空くと さすがに借金まではお願いしませんでしたが 空腹であることを私がほのめかすと 先輩が何かしら作ってご馳走してくださいました。立命時代の二年間と岐阜大学時代の六年間 合わせて八年間も先輩にはお世話になってしまいました。先輩は非常に面倒見の良い方でしたが これほど長期にわたってお世話になった後輩は 私だけだと思います。
その後も先輩が福井県に在住している時には ちょくちょく福井県に遊びに出かけました。芝政ワールドに出かけて遊んで おきにいりの民宿が見つかりましたのでそこに宿泊して 帰りがけに先輩のお宅にお邪魔したりもしていました。先輩が東京に転勤されてからは 福井へ出向かなくなりましたから やはり先輩の影響力は大きかったみたいです。東京にお住いの時は ディズニーランドに出かけた帰りがけに 一緒に食事をしたりしていました。
こうして振り返ってみると 私は常にこの先輩の追っかけをしているみたいです。そして昨年の末に長年勤めた会社を定年退職されて これまでよりもずっと近い関ヶ原の奥さんの実家に戻って来られました。先輩のご実家は兵庫県の三田ですから 関ヶ原の方がずっと近いので 私にとってはありがたい事かもしれません。戻って来られて 半年以上が過ぎましたから 落ち着かれたころかなと思って メールを差し上げて 一緒にご飯でも食べましょうと誘ってみたら 本日のお昼に時間と作ってくださいました。
働かなくてもいい身分なので のんびりと過ごされているのかと思っていましたら なんと現在就職活動中なのだそうです。サラリーマン一筋で勤め上げられましたから かなりの額の厚生年金を受け取られるのだとは思いますが 支給が始まるのは65歳からなのだそうで それまでは無収入になってしまうそうです。きちんと仕事について規則正しい生活をしておかないと 健康にも差しさわりがあると考えて 久し振りに履歴書に記入して 就職口を探しているのだそうです。但し 定年退職した年齢で 営業畑を歩いてこられましたから 就職を有利にしてくれる特技がないので かなり苦戦しておられるみたいでした。
先輩との約束の時間が十一時半でしたので その前に待ち合わせの場所の近所にある歴史民俗資料館を尋ねてみました。関ヶ原と言えば天下分け目の合戦が有名ですが 実はその千年ほど前に壬申の乱と言う大きな内乱があったのです。672年7月24日 – 8月21日に起こった古代日本最大の内乱で合ったのだそうです。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした為に起こった戦争です。
今更そんな昔の内乱には興味がないので もっぱらいわゆる関ヶ原の合戦の資料を見て回りました。大きなボードがあって 合戦の進行状況を紹介してくれていましたので 二回もじっくりと見せてもらいました。その他には 武将が身に着けたであろう鎧兜のレプリカが展示してありましたが まあ一軍の大将が直接敵軍と接触することはなかったのかもしれませんが 見た目が立派過ぎて 重そうだしバランスも悪そうですから 実戦向きの兜ではなさそうでした。
先輩との待ち合わせの時間が迫ってきましたので その場所に移動したのですが 移動中からすごい勢いで雨が降り出しました。日ごろの行いがよくないのかもしれません。お蕎麦を頂きながら 久し振りなので お互いの近況報告などをしました。先輩の奥様も同伴されていましたので 奥様の日常などもうかがっているうちに 結構時間が過ぎたので 先輩の馴染のある喫茶店に移動することにしました。
この移動の途中で トラブルが一つ発生しました。勿論私は初めての道なので 先輩の車を追尾して移動しました。その喫茶店の駐車場らしき地点で 道路を右折してその駐車場に入るのですがその時事件は起こりました。何と駐車場の入口のほぼ真ん中に 大きな車止めがあったのです。幅が1.5メートルぐらいで 高さが20センチはあったと思います。先輩は車止めがおることは勿論ご存知で その車止めの右側の隙間が ぎりぎり車が一台通過できるほどの幅だったと思います。
先輩は ぎりぎりの幅しかないことが分っていますから 車止めにぶつからないように 無事に通過されましたが 追尾していた私は よもや駐車場の入口の真ん中にそのような車止めがあるなどとは夢にも思っていません。追尾して走っていると 丁度先輩の車が死角になって その車止めの存在にまるで気づかないままその駐車場に接近してしまいました。こちらは駐車場の入り口の真ん中辺りを通過しようとしましたが 当然その車止めに乗り上げてしまいました。
その車止めの左側の隙間は車が二台通れる位余裕がありました。先輩がそちらのルートを通過していれば 当然こちらが右折する前にその車止めが目に入りますから ぶつからないようなルートを選択したはずです。先輩は「すまんすまんこっちのルートは車がぎりぎり一台しか通れないことを わしは知っていたんやけど」と仰いましたが 出入り口の真ん中に車止めがある駐車場に 初めて入る車が追尾しているのに 何故安全な左側のルートを通ってくれないのかと 一瞬ムカッとはきました。左側から駐車場に入ってくれれば 当然こんな事故は起こらなかったはずですが そんなのんびりしたおおらかな先輩ですから 文句を言う気にもなりませんでした。
車は勢いで前輪は車止めを乗り越えて丁度車の真ん中辺りで車輪が浮いてしまい いわゆる亀の子状態になってしまいました。幸いにも近所のおじさんたちが駆け寄ってくれて手伝っていただけたので 何とか難を逃れることが出来ました。私は現在の車は 最初から走行に問題がなければ 傷ついても一切修理しないつもりで 乱暴に運転していますから バンパーが相当に傷ついて ある部品が外れてしまうぐらいの被害を受けましたが 先輩に文句の一つも言いませんでしたが もっと上等の車に乗っていて 大事にされている方なら修理代位請求したかもしれないと思います。
まあ車の事は置いといて その喫茶店というのが 京都でいういわゆる町屋風のお店でした。そこでコーヒーを頂きながら お互いの知っている団員たちの近況などを語り合いました。私も塩野義に勤めている頃は 夜遅くに会社に戻った時に コッソリと遠方の友人たちに電話をかけて 色んな情報を集めていましたが 最近は合唱団のOBたちの集まりなどにもほとんど顔を出していませんでしたから 友人たちの意外な近況に驚くことが多かったです。結構皆偉くなっていて 若干焦りを感じましたが ひがんでもしょうがないので素直に受け入れました。
タップリと話をした後 せっかく関ヶ原まで来ているので 出来たら古戦場の一つぐらいは訪れてみたいと思っていましたが その喫茶店を出た時は 雨が止んでいました。
それで石田光成が布陣した笹尾山に案内してもらいました。先ほどまで土砂降りでしたから 地面はぬかるんでいましたが 見晴らしの良い場所で 関ヶ原の合戦の大まかな位置関係が見て取れましたから 興味深かったです。先輩と別れて 高速を帰っていると又雨が降り出しましたから ラッキーだったと思います。
先輩を十一月の枚方市 卒団生の集いに お誘いしましたが 結構忙しくなさっているみたいで 色よい返事はもらえませんでした。残念です。車がまた一段とオンボロになってしまいましたが それなりに有意義な一日だったと思います。

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