7月13日 1596年の本日 秀吉が家康に関八州を与えたのだそうです

秀吉の日本統一の総仕上げ的な段階での 最後まで反抗した一大勢力であるところの 北条氏を滅ぼすための小田原攻めが 終了して この日小田原城に豊臣秀吉が入り 論功行賞の結果 徳川家康に北条氏の旧領にかなりのおまけをつけて 徳川家康に与えたのだそうです。当時の関東地方は 京の都から遠く離れている とんでもないド田舎だったのでしょうし 徳川家としては 先祖代々の土地である東海地方を離れるのですから 手放しでは喜べなかったのかもしれませんが その領土の広さは 徳川家のその後の勢力の基盤となったのですから ある意味秀吉は 虎を野に放ったような 大失敗だったのかもしれません。

取り敢えず 秀吉としては 主君であった信長の盟友である家康は 大名としての格などから見ても 百姓出身の自分よりも はるかに上で 何代にもわたる絶対に裏切らない家来を多数抱える家康が 武将としての能力や 人の上に立つ魅力の持ち主であったことなど 目の上のたんこぶだったので 取り敢えずは十分な恩賞で目先をごまかして 京の都から はるかに離れた関東に追い出して ホッと一息つきたかったのだと思います。

明治維新があり 江戸城の後に皇居が建設されて 天皇陛下が移り住まわれて 日本の首都が江戸改め東京に置かれたのも 秀吉が家康を関東に送ったことに起因しているのでしょうから その後の日本への影響を考えると とんでもなく大きな出来事と言えるのかもしれません。もし秀吉が もう少し家康に対して 親近感を持っていたら ひょっとしてもう少し都に近くて 家康の先祖代々の領土に近い 名古屋辺りに領土を授けていたら 日本の首都は名古屋になっていたかもしれないように思います。

家康としては シブシブだったかもしれませんが 未だド田舎でありますから 逆にどのようにでも発展する可能性を秘めた広大な領土をもらい 譜代の信頼できる家来にその管理を安心して任せられたので 秀吉の死後の天下取りに向けての大胆な行動が 心置きなくできたのでしょうから やはり百姓上がりの秀吉とは持って生まれた立場の違いが その後の徳川家の繁栄につながったのかもしれません。

秀吉としては よしんば家康が反旗を翻しても 関東から上京する道筋に 秀吉を裏切らないであろうと信頼した大名を東海道筋に配置したつもりなのに 関ヶ原の合戦では その殆どが家康に与してしまいましたから 晩年の秀吉の細やかな心積りは 全て水泡に帰してしまいました。歴史にたらればは 禁物ですが もし信長が存命で織田家が天下を制していたなら 豊臣家もその重臣としての ポジションは維持できていたのかもしれませんから 勿論現実のような自分の天下は望めないものの 結果的には豊臣家が長続きしたのかもしれませんから 皮肉な運命だったのかもしれません。

歴史上 この事実は あまり重大事としては取り上げられていないように思いますが その後東京が日本の首都であり 中心地になるきっかけとなった出来事ですから もう少し注目されてもいい様に思いますが 如何でしょうか。

 

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