Dr.喜作のブログ

2015年3月 の記事一覧

  • 3月30日「乃木どこ」が終わってしまうなんて

    昨夜の「乃木どこ」をいつものように楽しく見ていました。所が番組の最後で 突然の重大発表という事で この番組の打ち切りが告げられました。確かにテレビ番組の改変期ではありますが まさか「乃木どこ」が打ち切られるなんて 全く予想もしていませんでした。まさに寝耳に水、青天の霹靂の大事件です。

    ここ数年 乃木坂の大ファンになってからは 日曜の深夜に放送される「乃木どこ」が私の一番の楽しみでした。「乃木どこ」が無くなってしまったら いったい私は何を楽しみにして 生きていけばよいのでしょうか。いつも日曜の深夜になれば「乃木どこ」で大好きな乃木坂のメンバーに会えることだけを楽しみにしていましたから もし本当に完全に打ち切られてしまったら 私の労働への意欲は殆ど断ち切られてしまいます。

    奥様の予想としては 恐らく番組改編期だから 放送の曜日や時間帯若しくはタイトルが変更になるだけの事を 大袈裟になくなってしまうなんて表現しているだけだと思うよ、と気楽な事を仰っていますが予告編としてメンバーが泣きながら出演している場面がチラッと流れていましたから 私としては本当に打ち切られてしまう事を考えて落ち込んでしまいます。

    正直申し上げて 四月になり病院も忙しくなりますから 張り切っていかなければならない時期ですが 全く働く意欲が湧きません。本当は今日だって病院を閉めてしまいたいぐらいでしたが そうもいかず一応はシャッターを開きました。あまり暗くなってもなんですから お昼に大急ぎでサラダとのり弁のお昼ご飯を作って 奥様といつも出かける津田山手の展望台に出かけました。

    本日はやっと暖かくなり かぜもほとんどなかったので ポカポカととても暖かくて 簡単なお弁当でしたが 青空の下で食べたので 結構おいしくて 楽しいひと時でした。いつもなら京都市街や比叡山までくっきりと見えるのに 春霞か黄沙の影響かもしれませんが 霞んでしまっていて非常に見通しが悪かったです。

    まるで「乃木どこ」が無くなってしまって 人生の大切な道しるべを失くしてしまい 暗礁に乗り上げそうなわたしの運命を予感させるような景色でした。乃木坂というグループは確かに昨年の秋ごろからメンバーにいろいろと好ましくない噂が流れて 恐らくその影響で ほぼ内定していたはずのNHKの紅白歌合戦の出場を逃してしまいました。

    しかし先日の西武ドームでの三周年記念ライブには四万人近いファンが駆けつけて非情な盛り上がりを見せていましたし、新曲の十一枚目シングル「命は美しい」も素晴らしい楽曲であり 相当なヒットが見込まれているはずです。アイドルグループとしては 前途洋々たるものがあると思いますが CDデビューする前から始まっていた「乃木どこ」をなぜこの時期に打ち切る必要があるのでしょうか。日曜日の深夜に関わらず視聴率だってそこそこ稼いでいたように思いますが。

    とにかく 「乃木どこ」打ち切りが間違いであることがはっきりとするまでは 私は完全に腑抜け状態のままだと思います。なんとか間違いであってくれることを祈るばかりです。カズミンやナーチャンの顔が毎週見られなくなってしまったら 本当に生きる張り合いが無くなる人間は 私だけではないと思いますから 何卒私のこの願いをお聞き届けください。お願い致します。

  • 3月28日 語呂合わせでにわとりの日なのだそうです

    私はこのブログに何度も書きましたが 子供の頃は塊の肉が食べられなくて 苦労しました。牛肉や豚肉は赤身の部分はまだしも脂身の部分が吐き気がするほど苦手でした。鶏肉は 皮の部分が気持ち悪かったです。さすがに中学生になった頃には 鶏肉の唐揚げや焼き鳥なら 美味しいと感じられるようになってきました。以前として特に脂身の割合の多い豚肉は苦手でした。

    ですから中学生、高校生の頃には母親にリクエストしてなるべく鶏肉を中心にメニューを作ってもらうようにお願いしていました。好物のカレーなどもビーフカレーよりもチキンカレーの方が美味しく感じていました。大人になってからは牛肉も豚肉も 特に好きというほどではありませんが人並みに食べられるようになってきました。但しホルモンの類については ミノヤテッチャンといった消化器系はまだ何とか食べられますが レバーやハツは 全く受け付けません。

    そんな事で鶏肉には昔から大変お世話になっていますが、岐阜大学時代に 解剖の実習で 一人に一羽ずつニワトリが配られて 解剖する授業がありました。解剖に使われるようなニワトリですから 恐らく養鶏場で散々卵を産ませられて ボロボロになったおばさんニワトリだと思います。そんなニワトリですから勿論肉も大してついておらず 食べるための食料とはみんな思わなかったみたいで 授業が終わったら捨てて帰るというので 鶏肉好きの私は皆からにわとりの残骸を貰って モモの部分だけ結構大量に下宿に持ち帰りました。

    何しろ親から一銭の援助も受けずに大学生活を送っていましたから 普段から肉の類は殆ど購入できない経済状態でした。持ち帰ったモモ肉は 取り敢えずシンプルに塩コショーで味付けしてフライバンで焼いて食べてみました。食べてみると 肉に解剖室の消毒液の匂いが染み込んでいましたから とても美味しく食べられません。

    そこで細かく切って白ネギと串に刺して 醤油、味醂、出汁の元などを合わせたタレにシッカリと付け込んで こんがりと焼いてみました。すると香ばしくて非常に美味しくいただけました。そこで大量のもも肉を切って串に刺して かなり時間がかかりましたが 大量に焼き鳥の準備ができました。一晩タレに付け込んで次の日に 日頃貧乏なので年下の友人たちですが何かとお世話になっている方たちを集めて 焼き鳥パーティーを開きました。

    とにかくお金がないので ビールなどの飲み物は自分たちで調達してもらいましたが かなり評判がよかったように思っています。それ以来 解剖の授業で 食べられそうなお肉があると 私が頑張って料理して友人たちに振る舞う事がちょくちょくありました。

    牛の解剖をした後は 当然大量にお肉を持って帰りましたが 勿論上等の部分 ヒレとかロースの部分は 予め先生たちからリザーブが入っているので無理ですが モモ肉あたりならいくらでも持って帰れました。但し 牛の場合一頭を使って 今週は消化器系の解剖、次の週は呼吸器系とか骨格筋の解剖というように 何週間か解剖室の冷蔵庫で保管されますから その強烈な消毒液の匂いを消して食べやすくするのに 結構工夫がいります。

    タレに付け込んで焼肉にしてみましたが やはり消毒液の匂いがして美味しくありません。しょうがないのでビーフシチューにして 徹底的に煮込んだら なんとか匂いが気にならず美味しくいただけました。下宿で勿論ビーフシチューパーティーを開きました。

    貧しくて殆ど肉など買えない経済状態でしたが 今振り返ると解剖の授業で使った動物のお肉で 結構楽しい生活だったのかもしれません。私はごく一般的なサラリーマンの息子でしたから 勿論それほど裕福な生活をしたことはありませんが あれだけ経済的に苦しかった生活は 最初であり最後にしたいと思いました。

    ニワトリの話から偉く貧乏くさい話になってしまいましたが 申し訳ありません。まあ現在の生活も将来の蓄えを大事に考えていますので かなり質素な生活をしています。本当に質素な生活をしていたら もう少し痩せていなければならないのかもしれませんが なかなか期待通りには痩せません。別にこの歳になって スマートになってお姉ちゃんにモテたいとは思いませんが健康で長生きするためには やはり体重が減ってくれることが必要だと思いますので 学生時代を思い出して 食べることにも倹約を頑張りたいと思います。

  • 3月27日 1969年の本日 テレビドラマ版「男はつらいよ」最終回が放送されました

    「男はつらいよ」というタイトルを耳にして 渥美清さん演じるフーテンの寅さんを思い浮かべられない若い方が増えてきているのかもしれません。最後の作品が公開されてから もう二十年が経ちますから致し方のない事なのかもしれません。そもそも「男はつらいよ」という作品は連続テレビドラマとして放送されていました。渥美さんが主演する物語ですから 勿論コメディータッチに描かれていたのだとは思いますが、私が子供の頃にテレビドラマの再放送を見た時には 結構シリアスな場面もあって 何にも考えずに笑えるような喜劇ではなかったように思います。

    只凄く寅さんが人気者であったことだけは間違いないと思います。何しろ予告編で寅さんが死んでしまうストーリーであることが分かると ファンが助命嘆願に奔走して ついには寅さんは亡くなるのではなくて 行方不明になる事にストーリーを変更させてしまったぐらいですから その人気は尋常なものではなかったろうと思われます。そんな最終回が放送されたのが四十六年前の本日なのです。

    テレビドラマの続編として映画化された「男はつらいよ」が そのあまりの人気の為にシリーズ化されてしまいました。渥美さんが元気なころには お正月とお盆の年に二回の映画界の書入れ時に 公開されていました。渥美さんの年齢がすすんで一年に一回のお正月映画だけになってしまいましたが 「寅さん」というのは俳句の冬の季語として認定されているぐらいに 日本の文化の一部分になっていました。

    映画のストーリー自体はワンパターンでしたが マドンナが毎回代わっていきますから 寅さんの失恋の仕方もそれぞれで 毎回新鮮さを感じました。私のように 女性に全く持てない男から見たら 結局は失恋するにしても 毎回毎回素晴らしい美女と出会いがあるだけでも寅さんは幸せだと思っていました。

    私個人としては ロードショーとして公開されている時期に 映画館へ観に行った記憶はありません。今はもうなくなってしまったのかもしれませんが ポルノ映画ばかりかけている映画館が 四本立てのうち三本はエロ映画で 一本だけ普通の映画がかかっていました。つまりエロ映画と抱き合わせでは映画館で「寅さん」の映画を見ました。

    恥ずかしながら一つ目の大学に通っている頃に 枚方公園の駅前にあったエロ映画館にはよく通いました。今はもう影も形も残っていませんが 懐かしい思い出であります。勿論そんなエロ映画専門の映画館でしたから 小さくて汚くていつも小便くさいような 最低の映画館でしたが 二十歳前後の性欲の最も盛んな時期でしたから 一年で十回以上は通いました。

    映画館の出入り口は勿論ふつうの道端にありますから その映画館に出入りする時には 緊張しました。いざ入ろうとした時に 若い女の子が通りがかろうものなら 勿論知らん顔をして通り過ぎます。映画館の出入り口の近所に誰もいないのをよく確認してから 切符売り場に行きチケットを急いで買って入館しました。

    客席にいるのは 平日の昼間にそんな映画館にいるような輩ばかりですから 勿論お友達になりたいような人物は一人もいません。もっとも私も相手から見れば似たような輩のうちの一人だったのだと思います。映画の内容はかなり昔の話ですから 若くて可愛い女優さんなんてほどんといません。かなりの年齢の方がセーラー服を着ていたりしますが そこは我慢して 普段頭の中で妄想するような出来事が再現されるのに 大いに興奮しました。

    さてその映画館から出るときがまた緊張しました。周囲に人の気配がないのを十分に確認してから飛び出すのですが 運が悪いと女の子の集団とすれ違ったりしてしまいました。女の子にしてみれば スケベな映画館から男が一人出てきただけで 何にも感じていないと思いますが そんな時には恥ずかしくて二度とこの映画館には来ない様にしようと決心したことが何度もありました。でもしばらくすると またエロ映画の魅力に負けてやってきてしまう 男の悲しい習性でした。

    「男はつらいよ」から全然かけ離れた話になってしまいましたが この作品のシリーズは全てテレビの地上波で放送されていますから 私もテレビでその殆どを見ていると思います。特別に感動するほどのストーリーではありませんが 昭和の頃の日本人の人情というか暖かさ、優しさをほのぼのと描いてあって 見終わった時にはホッとできる作品ばかりだと思います。若い方には 古臭くて興味が湧かないかもしれませんが 一度レンタルのDVDなりブルーレイなどを借りて ご覧になっても損はないと思います。私も懐かしくなったので 久しぶりにツタヤにでも出かけてみようと思います。

     

  • 3月26日1827年の本日ベートーベンが亡くなりました

    所謂クラシックの作曲家で 一番有名な方かもしれませんが わずか56歳で亡くなられました。私よりも若くして亡くなられましたのに 人類にとって大切な財産ともいえるような作品を多数残されました。私がベートーベンの偉大さを痛感させられるのは 彼が二十代半ばから重い耳の病気にかかっていた事です。徐々に悪化する耳の状態に 音楽家として自殺も勿論考えたはずです。しかしそこから立ち上がり耳の聴こえない音楽家として 人生の後半を立派に生き抜いたことが 彼の残した偉大な作品と同等の素晴らしさだと思います。

    音楽家が聴力を失う事は 画家が視力を失う事にも匹敵する事だと思います。彼が取り組んだ音楽は 単純なメロディーだけで構成されるような音楽ではありません。複数の楽器による音と音の重なりあう和音は 音楽理論的には想像できるのかもしれませんが 実際に耳で聴いてみなければ どのような広がりが生み出されるのか想像する事は非常に難しい事だと思います。

    私は十年以上ピアノを習っていましたから 勿論彼のピアノソナタにも挑戦したことはあります。子供の頃からバックハウスやケンプの演奏のレコードを擦り減るぐらいに聞き返した時代もありました。私の拙い技術では 自分の思い通りに弾きこなせたことはありませんでしたが 一応人前で演奏したこともありました。

    但し ピアノを本格的に習われたことがある方なら勿論ご存知だと思いますが 彼の作品番号の百番台のピアノソナタは 聖域とされていますから 楽譜に目を通したことはありますが 勿論手を出したことがありません。

    交響曲で全てのクラシック音楽のジャンルで一番好きな作品が五番「運命」です。特に第四楽章が好きです。いい演奏だと大抵涙ぐんでしまいます。それから勿論七番も特別に大好きです。他にも三番、六番、九番もと 好きな作品ばかりです。

    私は交響曲の作曲家として ハイドンやブルックナーも凄く偉大だとは思いますが たった九つの作品の中に好きな作品が目白押しのベートーベンは やはり特別な存在です。友人でモーツアルトを崇拝している人物がいますが 私は好みの問題なのでしょうが 何となく好きにはなれません。

    ベートーベンの好きな作品の中で「運命」と双璧をなすのが 「荘厳ミサ曲」です。この作品も合唱曲の中である意味聖域にある作品だと思います。昔塩野義に勤めている時に所属した北陸地方の下手糞な合唱団が この作品に何度もチャレンジしていましたが 作品の品位を汚すような行為はやめてほしいと思ったことがあります。

    作品が年齢とともに充実していくのは 当然かもしれませんが 彼の聴力が完全に失われてからの時期であることに 凄く大きなジレンマを感じます。若い頃には演奏家として、指揮者として 自分の作品を発表していましたが 聴力を失ってからは 作曲家に専念していました。致し方のない事なのかもしれませんが 彼は自分の頭に浮かんだ音楽を楽譜に書き起こすだけで 全然自分の耳でその音楽を楽しむこともできないのです。

    別に格好をつけるつもりはありませんが ベートーベンの残した作品は 私の人生にとって必要欠くべからざるパーツになっているぐらいに素晴らしい作品だと思います。その作品の大半を彼は耳にしたことがないというのは ベートーベンにとって最大の不幸なことだと思います。

    久し振りに「荘厳ミサ曲」を聴いてみようと思います。バイオリンソロの部分は 思わず泣いてしまうぐらいに美しいメロディーだと思います。

  • 3月25日 全く無意味な一日を過ごしていまいました

    昨日のブログに書いたように 結構寒い中を外出しましたので 奥様が風邪気味でご機嫌も悪くて zん前私の相手をいてくれませんでした。せっかくの休診日なので 私としてはそれなりに有意義な一日にしたかったのですが 私は奥様が相手をしてくれないと 遊んでくれる友達も殆どいませんから 凄く寂しい老人になってしまいます。

    奥様が相手をしてくれないので 何をしてよいのか分からず 結局はゴロゴロとしながら 録画してある番組や映画を見ながら過ごしました。せめて昼からでも溜まっているカルテの整理とコンピューターへの入力や 集合注射の準備でもすればよかったのですが 何もしないままに 本当にベッドの上でゴロゴロしながら ダラダラと過ごしてしまいました。

    普段サボっている仕事 例えば犬舎の徹底的なお掃除や 犬を繋ぐ運動場の掃除などをすれば 奥様に褒めてもらえるかもしれません。汚れた床をモップで磨き上げてワックスでもかければ 凄く有意義な一日になったと思います。せっせと体を動かせば 血糖値も下がり健康にもよかったと思います。

    なのに 私はすねた子供のように 敢えてダラダラと無意味な一日を過ごしてしまいました。はっきり言って私の人生に残された日々はそれほど多くないと思っています。ですから尚更一日一日を大切にして意味のあるに日を過ごさねばと感じています。なのに本日は全く建設的な事はしないで 残っている寿命を無駄遣いしてしまったような一日でした。

    せめて急患でも来てくれたら多少はお仕事をできたかもしれませんが こんな日に限って トリミングの予約も問い合わせの電話もかかってきませんでした。

    毎日を充実させて生きておられる方も沢山いらっしゃるのだとは思いますが 私の様に根が怠け者の愚かな人間は ダラダラと無意味な日々を積み重ねて来て 今日に至っているような気がします。残り多いと言えない私の人生ですから 今現在のように 今日一日何もしなかった自分を後悔している時間が 一番勿体ないのかもしれません。自分の残り少ない人生を自覚して 出来るだけ今日のような無意味な一日を少なくするように努力していこうと思っております。

  • 3月24日 山田池公園のバーベキュー場を下見に出かけました

    昨年から時々実施している近所の小嶋先生の所との昼食会を 大分暖かくなってきましたから 次回はバーベキューでもどうかなと思って 山田池公園に出来たバーベキュー場を下見がてらお弁当を持って出かけてみました。公園に駐車場はありますが有料なので よくない事ですのでお勧めは出来ませんが お世話になっている明尾寺の駐車場の隅っこに停めて 歩いて出かけました。

    結構日当たりは良いけれども 遮るものが殆ど無いせいか 風がビュンビュン吹いていましたので かなり肌寒く感じました。バーベキュー場につきましたが 別に普通の芝生に「バーベキュー場」と看板が出ているだけで 別に変わり映えのしない場所です。勿論バーベキュー場なので 食品の洗い場や使用後の炭の捨て場などがきちんと用意されていました。

    本日は結構肌寒いし 平日ですから 実際にバーベキューをしている方はチラホラとしかいらっしゃいませんでしたが 日曜日には凄く暖かでしたし かなり賑やかだったのではないかと思います。バーベキュー場は予想以上に広くて 風通しが良すぎるので お弁当を食べるのに 暖かくて落ち着ける場所を探してうろうろと歩き回りました。学校が春休みになったので 小学生や中学生の子供たちが 案外たくさん遊んでいました。

    テーブル代わりになりそうな大きな平らな岩があり その横に腰かけるのにちょうどよい石が置いてある場所が見つかりましたので そこでお弁当を食べることにしました。お弁当と言っても ついさっき思いついてあり合わせで作ったので お粗末なものです。

    まずは私の主食がサラダです。もうすぐ病院の日が近づいていますので 血糖値が上がるのを注意して ここの所炭水化物を控えているからです。キャベツをスライサーで千切にして同じくスライサーでキュウリを薄切りにしました。にんじんをピーラーで薄切りにしたものを加えて ハムを細かく切ったものと ゆで卵をホークで細かく砕いたものをのせました。ドレッシングはシロップ薬を出す時の容器に入れて持って行きました。

    次にご飯ものとして レンジでチンするご飯を温めて 小さめのタッパーに入れました。その上に味付け海苔を一口大にちぎって敷き詰めました。ゆで卵をスライスしたものを更に上から敷き詰めて、さんまのかば焼きの缶詰を見栄えよく広げてのせて サンマのかば焼き丼を仕上げました。

    それだけでは 何となく盛り上がりに欠けるなあと思って 出来合いの茹であがったスバゲティーをフライパンで炒めて 玉ねぎやキャベツピーマンなどの有り合わせの野菜をたっぷりと加えて 添付されているケチャップ味の粉末ソースを絡めて 簡単なナポリタンスパゲティーを作り これもタッパーに詰め込みました。熱い日本茶を保温水筒に入れて準備が出来上がりました。

    本当はおやつのお菓子も持って行きたいのですが 私が摂生する生活中なので やめておきました。ほんのあり合わせで二十分位で作ったお弁当ですが 取り敢えず見晴らしの良い青空の下で食べましたから 美味しかったです。

    只 私がなるべく炭水化物を食べないようにしているので かば焼き丼とスパゲティーが奥様担当になり 何時ものように量が多すぎて またまた文句を言われてしまいました。食べ物なんて少し物足りない位で丁度良いし もっと食べたかったという気持ちが 美味しかった、また食べたいという気持ちにつながるから 少なめなぐらいに作りなさいといつも奥様に言われてしまいます。

    ただ私はせっかく楽しい食事をするのなら 別に大したご馳走でもないのだから せめてお腹一杯で満ち足りた気分になった方がよいのではないかと思ってしまって ついつい多い目に作ってしまいます。だからデブなのでしょうが  生まれ持った性分なので なかなか改まりそうにありません。

    見晴らしがよい分 風通しの良い場所で食べましたから 寒かったので普段は食事の後にダラダラと談笑するのですが 早めに切り上げて 車に戻りました。とりあえずバーベキュー場は予想していたよりもずっと広くて 平日なら場所取りをしておく必要はなさそうなことが分かりました。後は病院の三階に置きっぱなしになっているバーベキューコンロやイスとテーブルをチェックして バーベキューの道具に不備がないかチェックしたら 準備完了です。

    こんな書き方をしたら 私が率先してやるような表現になっていますが 実際は奥様にお願いしてしまいます。どっちみち間抜けな私がやっても きちんとしたチェックにはなっていないからです。バーベキューは炭火を起こして 青空の下で 食材を焼いて食べるだけのものですが 実際にやってみると頭の中で想像するよりもずっと楽しいです。シッカリと準備ができたら 小嶋先生を誘って楽しいお食事会を開こうと思っています。

  • 3月23日 本日は語呂合わせで「ふみの日」なのだそうです

    子供の頃は 私はどちらかといえば引っ込み思案で 人前で自分の考えをしゃべるのは凄く苦手でした。ですから 子供の頃には手紙など年賀状しか書いたことがありませんでした。いわゆる作文が苦手でしたから 手紙なんて出す相手もいませんでしたが 手紙を普段の生活で出す事なんて その発想さえ浮かびませんでした。

    そんな作文が苦手だった私が 他人に自分の文章を発表する機会を半強制的に与えられたのが 一つ目の大学に通っていた時でした。一つ目の大学では 私は混声合唱団に所属していましたが毎年秋に役員の改選選挙が行われます。普通は二年生が役員のチーフに立候補して 翌年の三年生の時に役員の仕事をするのが通例でした。

    私はちょっとした事情があってそのサークルに所属するのが遅れてしまいましたが 秋までには結構おもろい大阪のオッサンというイメージが定着してしまっていました。立候補する役員のメンバーをある程度話し合いで絞り込むための泊まり込みの話し合いが開かれました。

    基本的に立候補するのは二年生なので一年生の私は無関係だと思って 気楽に参加していました。私は自宅通学でしたから近所に住んでいる女の子と いつも練習終りに京阪電車で一緒に帰っていました。その女の子たちと帰り道に話すときには おもろいオッサンではなくて サークル活動についての前向きで建設的な意見を よく話していました。

    その女の子たちの一人が 私が結構建設的な意見を持っているという事で 合唱団の機関誌の発行責任者である役員に 私を推薦してしまったことから 事件は起こりました。一応二年生からもその役職に押されていた女性がいましたから 私は一応対抗馬として形だけ立候補させられることには決まりましたが 選挙でまさか当選することはないだろうと まだ気楽に構えていました。

    但し 私としては形だけでも その役職に立候補するからには 過去の機関誌を部室にこもって じっくりと調べてみました。過去の機関誌は 部員に配布して残った分が乱雑に積み重ねてあるだけでしたので 先ずは年代別にそして発行順に整理して きちんと資料としてファイルしました。

    その取り上げられている記事の内容をしっかりと読み返してみました。新聞の社説のように その時の合唱団の運営役員の仕事についてや雰囲気について 批評批判をしたり 合唱の技術向上のためのアドバイスであったり 団員のプライバシーを紹介したりする娯楽的な記事もありました。他の合唱団に練習見学に行っての練習を紹介する記事や、キャンパスの学生に自分たちがどれくらい認識されているのかアンケート調査をして集計して その結果報告と分析の記事もありました。

    私は過去の企画で面白そうなものや 自分で考えだした企画を 投票の前の質疑応答で 面白おかしくですがある意味真剣に話しました。その面白おかしさが予想外に受けてしまって なんと私は一年生なのに団の機関誌の発行責任者に当選してしまいました。

    それまでの機関誌は 年に数回忘れたころに発行されるようなゆるい機関誌でした。発行にかかわるメンバーもほんの数人しかおらず 細々と発行していました。でも私は自分が責任者として発行するからには 月刊で発行しようとかんがえました。発行を手伝うメンバーも有能そうなメンバーを私が着々とスカウトして十人近く確保しました。

    月初めに編集会議を開いて 各自必ず自分なりの記事の企画を考えてくるように指示を出しました。各メンバーの持ち寄った企画を吟味して その月末に発行する機関誌の内容を決定しました。月末には団員に配布するためのスケジュールもその時に決定しました。配布する前の日曜日には 全員で集まって 記事をボールペン原紙に書いて 輪転機を回して 印刷物をまとめてホッチキスでとじ合わせる作業に追われました。せっかくの日曜日を潰されるので メンバーからは不満の声もありましたが 休みを一日潰してもそこそこ立派な機関誌が出来上がるので みんな頑張って参加してくれました。

    合唱団としての運営面や雰囲気を批評批判するのは 私以外の役員がすべて一学年上の先輩でありかなり気を使うし難しかったけれど 懸命に取り組みました。音楽面では合唱曲やその作曲家の魅力を紹介したり 技術面での基本的な練習法を例示したり、他の合唱団の練習法を積極的に見学に出かけて紹介するなどかなり画期的な企画であったと思っています。

    私が一番力を入れたのが娯楽面で 学部対抗漢字のテストを実施してどの学部の人間が一番賢いのか論評したり 一番麻雀の上手いメンバーに 実践麻雀教室を連載してもらい そのテクニックを教示してもらったり いきなり下宿訪問と題して メンバーの下宿に押しかけて実況中継的なレポートをしたりもしました。下宿生が多いので 自慢の手料理のレシピを披露してもらうコーナーは結構人気があったと思います。

    それと私が個人的に機関誌の発行責任者になってしまった心境を 小説風にアレンジして掲載してみました。評判が悪ければ直ぐに終わろうと思っていましたが 結構好評だったので このブログに似た雰囲気で このひと月の間に私の身の回りに起こったことや考えたことを文章にして発表しました。この企画は結構長続きしましたから 私としても予想外であり嬉しかったし 正直な気持ち楽しかったです。

    それまでは 私は大阪人ですから人前でおもろいことを言って笑ってもらうことは大好きでしたが 自分の内面をさらけ出すことにかなり抵抗がありましたが 自分の正直な気持ちを表現すると 結構共感してもらえたり 勿論反論やアドバイス、お叱りを頂いたりもしましたが 自分の気持ちを正直に表現することが 面白くなってきました。

    大学生のサークル活動ですから 事情があってサークルを離れていくメンバーもいましたが そのような人たちに思い切って手紙を出してみました。団の機関誌に自分の気持ちを表現することが楽しくなっていた私としても かなり勇気のいる行動でしたが 思い切ってその人たちに手紙を出してみました。 サークル活動からは離れても個人的に付き合いが残った人もいましたし、気持ちを翻してサークルに残ってくれた人もいました。

    私が年賀状以外に手紙を書いたのはその時期だけかもしれません。そして現在は果たしてどれだけの人に読んで頂けているのか不明ですが せっせとブログで一方通行のお手紙を書き続けています。極たまに同窓会的な集まりに顔を出すと 意外な人がブログを読んでくれていたりして 結構嬉しくなることもありました。来院される飼い主さんにも 帰りがけに感想を言われたりして ドキッとすることもありましたが 読んで頂けてすごく嬉しい気持ちになりました。

    こんなブログをいくら一生懸命に書いても 一銭にもなりませんが 楽しく読んでいただける人が ほんの少しでもいてくださることを励みにして この一方通行の手紙を書き続けていこうと思っていますので どうかよろしくお願い致します。

  • 3月22日 本日は毎月の事ですが語呂合わせで夫婦の日だそうです

    私が一番身近に そして長い間みてきた夫婦は 勿論両親です。父親は私と同様に非常に短気であり 九州男児だからなのかどうかは知りませんが 家の中ではかなり威張っていたように思います。子供の頃には私が何か悪い事をしでかすと かなり厳しい叱責を浴びせられました。小学生の頃の私は 大きな声で叱られたり 軽くビンタされたりすると すぐにメソメソ泣いてしまう 非常に情けない男の子でした。その情けなさが父には余計に腹立たしかったのかもしれませんが 泣くとさらに厳しく叱られました。子供の頃の父は 非常に怖い存在でした。

    母親は表面的にはおとなしい女性だったみたいで そんな父親を上手に立てて生活していたように思います。母は結構若い頃からリューマチ関節炎という不治の病に侵されていましたので そこそこ若い頃から障害者として認定されてしまいました。その為に私と妹は子供の頃から出来る範囲で手伝いをいろいろとしていました。父もかなりの部分の家事を 特に文句を言うことも無く 受け持っていたように思います。父は口では偉そうに威張っていましたが 母を凄く大切にしていると感じていました。

    私が高校生になり 体格的にも体力的にも父親に勝るようになると さすがにしかる時に手を出すことは無くなりましたが 言葉による叱責は 筋が通っていましたから かなり心に響いてきて 私にとっては怖い存在であることは変わりませんでした。しかしある程度大人になってから 父と母の関係を冷静に観察すると 一見父親が偉そうな口調で喋っているので威張っているようですが 母親は上手に受け流していて ある程度父の怒りが収まるタイミングを見計らって ほんの一言か二言で上手に父の発言について 上手に補足したり 訂正したり、あるいは嗜めたりしているのに気付きました。

    父は気が短いけれどあっさりとした気性だったので 一旦口調を荒げて文句を言っても 言いたいことを言ってしまえば 直ぐに気持ちが治まっていたようで 上手いタイミングでの母の一言を それなりに有難く受け取っているようにも思えました。

    別に自分の両親を自画自賛するつもりはありませんが 非常に短気で表面的には威張っていた父親と 上手に受け流して上手く父を扱っていた母親は とても良い夫婦だったのではないかと思います。母の晩年は 寝たきりの障害者でしたが 父がなんだかんだと文句を言いながらも 家事全般から母の下の世話まで全て父が受け持っていましたから 本当に父は 母を大切にしていたと思いますし、そんな父に母も十分に感謝していたように思います。母が亡くなってもうすぐ七回忌ですが 父は月命日ごとの墓参りを欠かしたことはないと思いますから 未だに母を大切にしていると思います。

    そんな素敵な夫婦関係を気づいた両親に比べて 私はどうかと言えば決して褒められた夫婦ではないように思います。私は病院を開業した頃に 一度結婚をしました。二年ともたずに離婚してしまいました。相手の女性が悪いとは全然思いません。私が開業したばかりであり 仕事にも私生活にも全然余裕がありませんでした。開業したばかりですから 仕事が上手くいかないことは今以上にあったと思います。その不満を愚かにも私は全て奥さんだった人にぶつけてしまいました。本当に今思い返すと情けない話です。けれども感情を上手くコントロールできなかった私は 結局離婚するという選択をしてしまいました。今もしその女性と出会ったなら 土下座をしてでも謝りたい気持ちです。

    その後仕事はある程度軌道に乗ってきたのかもしれませんが やはり一人では寂しいので 女性との出会いを求めて現在の奥様と巡り合えました。奥様は私の目から見て全く欠点の見当たらない位に 優秀であり魅力的な女性でした。只 奥様も再婚で子供が一人いました。私は連れ子がいる女性と上手くやっていけるのか悩みましたが 余りに奥様が魅力的な存在だったので 奥様と一緒に暮らすことを決意しました。

    私も一度結婚に失敗していますから 心に余裕をもって他人と生活するのだから不満な事が沢山あるのは当たり前 という気持ちで同居生活を始めました。所が 私の懐の狭さがまた災いしてしまって 奥様の子供との関係がどうにも上手くいきませんでした。赤の他人同士が 親子になろうとするのですから 実の親子でさえも上手くいかないケースが珍しくないのに いろんな問題が起こるのは当然です。その子に責任は全くなくて 全てを受け入れられない私が全面的に悪い事は 重々承知していましたが どうしても一緒に暮らすことは出来ませんでした。

    かと言って奥様との関係を断ち切ることも私にはできなくて 結局近所に家を借りてもらって奥様にはそこで生活してもらいながら 私との関係も継続する現在の形に落ち着きました。結局タイミングを失ってしまい籍も入れてはいません。勿論奥様の今後はすべて私が面倒みるつもりですし、私の残す決して大したことはありませんが 全財産は奥様に譲る由を認めた遺書も奥様に既に渡してあります。

    私は両親のようにごくありふれているのでしょうが 平凡で普通の幸せな夫婦生活はおくれていませんが 奥様という私にとっては有難すぎる女性と一緒に人生を歩んでいけますので 決して自分を不幸だとは思っていません。奥様も手放しで喜べる人生ではないと思いますが それなりに納得のいく人生を送っておられるのだと思っていてほしいです。

    現在の私の夢は 十分な蓄えが出来て 奥様と優雅で充実した老後がおくれたら それで凄く幸せだと思います。その夢を実現するためにあと数年病院の仕事を頑張るつもりですので どうかよろしくお願い致します。

     

  • 3月20日 今年のプロ野球について思う事                                                                                                                                                                                                                                                

    少し前のブログにも書きましたが 私は物心ついてからほぼ50年ぐらいずっとドラゴンズを一筋に応援してきました。しかし、ここ数年の球団の状態に徐々に嫌気がさしてきて 今年は完全に堪忍袋の緒が切れました。正直申し上げて 選手の補強やチーム作りの方針 監督の選手兼任など 私の我慢の限界を超えてしまいました。所謂可愛さ余って憎さ百倍というやつです。

    今年は別に下馬評がいいからという訳ではありませんが 一番にオリックスを応援していこうと思っています。もともとジャイアンツが大っ嫌いなので プロ野球に興味を持ち始めた小学校三年生の頃 丁度ジャイアンツがV9の真っ最中であり パリーグの覇者である阪急ブレーブスを私は一生懸命に応援していました。

    但し日本シリーズは年にほんの一週間ぐらいの事なので セリーグに応援するチームを求めました。私は別に天邪鬼であるつもりはありませんが 圧倒的に強い存在 例えば当時の巨人や大鵬、それから政党で言えば自民党などに強く反発を感じる方でした。巨人に対抗するチームなら 大阪に住んでいますから普通なら阪神ファンになるはずです。所が同じクラスの大嫌いな奴が熱狂的な阪神ファンだったので阪神以外のチームを探しました。たまたまその頃ドラゴンズが好調であり 大嫌いな巨人に連勝していたりしましたので すんなりとドラゴンズファンになってしまいました。

    それからはドラゴンズ一筋で約50年過ごしてまいりましたが 今年からもともと応援していたオリックスを応援しようと思います。セリーグではどうしても阪神が好きになれませんから カープの久し振りに優勝を期待して応援する事にしました。どうせ応援するなら巨人の優勝を阻止してくれる期待のできるチームを応援したいからです。

    急に応援を始める気になったので 主力選手の顔と名前すらほとんど知りませんが ボチボチ両チームに馴染んでいこうと思います。オリックスの本拠地は大阪ドームで近いし 広島も新幹線で行けばそれほど遠くありませんから 一度ぐらいは出かけて行って 名物のうどんを食べてみたいと思っております。

    何しろ新米のオリックスと広島ファンなので 間抜けな事や頓珍漢な事を書いてしまいそうですが まあ初心者だと思って大目に見てやってください。

  • 3月19日 九州在住の叔父が亡くなりました

    診察時間が始まってほどなく 父から電話が入り 福岡県の杷木に住んでいる叔父が本日の未明に亡くなったと連絡を受けました。父は男ばかり四人兄弟の長男で 今年88歳になりました。亡くなった叔父は次男で今年86歳になったばかりでした。男性で86歳ですから結構頑張って長生きされた方かもしれません。私の父は 昨年の夏の必要だったのか否かはっきりとしない手術の為に 一気にボケてしまいましたから 当然父の方が年を越せずに亡くなることを覚悟していましたが 現在は大分状態が回復して 相変わらず酒を毎日飲んでいますが そこそこ元気に暮らしております。

    亡くなった叔父も 数年前に一度脳梗塞を患って 上手く喋れないような状態になっていましたが 少しずつ回復してきていると聞いていましたので 突然の訃報に少なからず驚きました。20日がお通夜で21日が告別式なのだそうです。少し前に祖母が102歳で亡くなった時には 告別式にだけは間に合うように福岡まで駆けつけましたが 今度は叔父さんという事もありますし 連休にかかっているので手術の予約などが立て込んでいいて どうしようかと考えていましたが 父から香典と 甥姪を代表して花を贈ればそれで恰好がつくのではないかと 提案されましたのでそうすることにしました。

    亡くなった叔父さんは 父が長男なのに家を継がずに飛び出したので 農家である実家を継いで祖母と一緒に暮らしていましたので 小学生の頃から祖母に会いに行くたびに 遊んでもらった記憶があります。直ぐにかっとなる短気な父と違って 穏やかなのんびりとした気質だったので とにかく父は怖かったけれども 叔父さんは凄く優しくて親しみを感じていました。

    大人になり 祖母が亡くなってからは尚更会う機会は無くなってしまい 縁遠くなってしまい 年賀状のやり取りをするだけ位のお付き合いになってしまっていました。父の頭髪がかなり寂しい状態になっているのに対して 叔父さんは真っ白でしたがかなりふさふさとしていました。私もかなり白髪の割合が高いので どちらかと言えば寂しくなるよりも 例え真っ白であっても ふさふさに残っているほうがまだましなように思いますので頭髪に関しては 叔父さんを見習いたいと思っております。

    取り敢えず父との電話を終えると 叔母さんに電話をかけて お悔やみを申し上げました。それから弔電を打つために インターネットで弔電を検索しました。今どきは ネットで簡単に弔電も打てるようになっています。まずは写真を見て封筒というか包装を選びました。ついで例文の中から自分の気持ちにマッチした内容を選択しました。後は相手の住所や電報の到着時間を指定して 自分の名前と住所などを打ち込むと クレジットカード支払いを選択して カード番号を打ち込んでしまえば 弔電が打てたはずです。

    福岡まで駆けつけることは出来ませんが 心よりご冥福をお祈りしたいと思います。本日は暗い内容になってしまって 申し訳ありません。ただ父親が最期を迎えるのも時間の問題と覚悟しておりますので、その日が一日でも先になることを祈るばかりの私でございます。