2月16日 1851年の本日 水野忠邦さんが亡くなられました

58歳で亡くなられたようですから 私と同い年で百年以上昔の方とはいえ若くして亡くなられたようにも思います。江戸幕府の三大改革の一つ 天保の改革の実行者として 受験のための歴史では必須う人物のように位置づけられているように思います。イメージとしては 悪名高き田沼意次の賄賂政治から 脱却して 幕府の財政を立て直した清廉潔白で立派な人物のように思っていました。

所が ウィキペディアで水野忠邦の人となりを見てみると もとは長崎の唐津藩主でありましたが 長崎にいては長崎警備を任されるために 中央での出世が望めないと知るや 浜松へ転封願を出して 実質の石高で六割ぐらいの小さな浜松に移転しています。当然自分の家来からは給料が減るわけですから 凄く反発を招いたみたいです。相当に出世欲の強かった人物みたいであり 出世のための付け届けなどは かなり派手に行ったのだそうです。

付け届けなどが功を奏したみたいで 結構なスピードで出世できたみたいです。老中のトップに立ってから いわゆる天保の改革に着手したみたいですが 人返し令や株仲間の解散 上知令などを断行したために 庶民から各地の大名まで 敵に回したみたいであり 自分の配下の役人にまで裏切られたそうで ほんの数年で改革が十分に効果をあげたのかどうか疑問の残る段階で 失脚してしまったみたいです。暫くして 他の老中が失態を繰り返して 老中首座に返り咲いたみたいですが やる気を全くなくしてしまったみたいで まさに木偶の坊の様だったのだそうです。

正直な所 私がイメージしていた人物像とは 水野さんはかけ離れているようで 少しがっかりしてしまった気持もありますが 何か事をおこそうとすると 反発を招いてしまうのは 致し方の無い事なのかもしれませんし 事をなそうとするには ある程度の権力を持たなければなりませんから その権力を手にするためには 他人との競争に打ち勝つためにそれなりの行いが必要とされるのも当然かもしれません。

幕府の三大改革の実行者として その死後百年以上たっても 名前が知れ渡っている人物ですから それなりに充実した人生だったのかもしれませんが 晩年の処遇は決して満ち足りているとは 考えにくいかなり惨めなものですから 人間何をもって幸せとするかは難しいなと思いました。

 

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