4月7日 私が子供のころは入学式の日でした

昔は四月七日が入学式の定番でしたが 今では市町村によって異なる場合もあるみたいです。私が枚方市の開成小学校に入学したのはもう五十年も前の今日でした。半世紀前だと思うとゾッとします。親の世話にはあまりなりたくなかった子供みたいでしたが さすがに小学校の入学式には母親と一緒に登校しました。ランドセルが最初はすごく大きくて重たく感じたのを今でも覚えています。私が小学校に通っているうちに母がリューマチに罹ってしまいましたのでその後はだんだん日常の生活でも不自由をするようになりましたが その頃はすこぶる元気な母親でした。桜が校庭にきれいに咲いていたのをよく覚えています。

一年一組で出席番号が十八番でした。二年生以降のことはあまりよく覚えていませんが一年生の時のことはかなり鮮明に覚えています。担任の先生が曽我部節子先生で かなりのご高齢の先生だったと思いますが いたずらをしてよく頭をこつんとやられていました。今の時代なら多少は問題になるのかもしれませんが当時は悪いことをしたら 怒られるのは当然の事でした。教室の横の空き地でよく相撲を取ったのを覚えています。私はクラスで二番目位に強かったと覚えていますが池田君という子にはなかなか勝てませんでした。私は走るのはあまり速くありませんが 腕力にはそこそこ自信がありました。

鉄棒にぶら下がって懸垂が五回できるのが自慢でした。私以外の子はみんなひ弱すぎたのかもしれませんが一回もできたら良い方でした。今思えば懸垂の五回ぐらいは全然大したことがないのですが 当時はかなりの力自慢でした。ある日の休み時間に校庭のブランコで遊ぼうと授業が終わると大急ぎでブランコのあるところへ駆けてゆきました。隣のクラスの授業が早めに終わったみたいで 隣のクラスの女の子が先にブランコで遊んでいました。

しょうがないのでブランコが開くのを待っていました。授業と授業の合間の十分しかない休憩時間なので うちのクラスでは大体十往復位漕いだら次の人と交代する暗黙のルールがありました。所が、先に来て遊んでいた女の子がいつまでたっても交代しません。十回漕いだら交代するルールはうちのクラスだけのローカルルールですから その女の子がそんな暗黙のルールなんか知る訳もないし 基本的には早い者勝ちが校庭の遊戯具を使う時の常識なので うちのクラスの連中はみんな相当カリカリ来ていたけれど辛抱していました。

そこで力自慢の私は我慢できなくなって 女の子が乗っているブランコを力づくで止めて「いい加減で交代しろ」と叫びました。女の子が鳴き出して「田中君助けて」と大声でわめきました。そこに田中君が登場しました。ずんぐりとした体格で相当に腕力のありそうなやつだとは想像できましたが こちらも女の子に対して力づくの行動に出たので引っ込みがつかず正面から対決しました。

結果はあっさりと投げ飛ばされて情けないほどあっさりと負けてしまいました。後から田中君に関して情報を集めたら懸垂を軽く三十回以上できるずば抜けた体力の持ち主と分かりました。私は勝てない喧嘩はしない主義の情けない子供だったので 田中君と体力で張り合う事は以後一切ありませんでした。但しお勉強の方では私の方がかなり上回っているという情報も入ってきましたので次のクラス替えで同じクラスになった時にお勉強の方で授業中に例えばテストの点数を比較したりして叩きのめしてやりました。情けないけれど私は子供の頃からそんな嫌な奴でした。

体力で劣っているのなら自分の体力を向上して相手に立ち向かうという正攻法よりも 自分が楽で確実に勝てる作戦を選択する卑劣な野郎であることを思い出して、五十年たっても全く人間的に成長していないことを自覚して今更ながら悲しくなってしまいました。まあ「三つ子の魂百まで」ということわざもありますから致し方のない事でしょう。

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