5月19日 1560年の本日 織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取りました。

この事件は 信長を語るうえで 凄く重要なエピソードですから ご存知ない日本人はいらっしゃらないと思いますが 客観的に見るととんでもないどんでん返しが起こったのです。オリンピックのサッカーで日本がブラジルに勝ってしまったマイアミの奇蹟や ラグビーの前回ワールドカップで日本が南アフリカに勝利した事 どころではない大ドンデン返しなのです。当時は その大名の勢力は 石高即ちコメの生産量で 数字的にある程度判断できました。石高が多ければそれだけ 経済的な基盤が強いので 当然兵士の動員力にも反映されます。
桶狭間の合戦の時の兵士の数は 諸説ありますが 義元が三~四万人 信長が二~四千人と言われていますから 義元は信長の十倍くらいの兵力を抱えていたのです。正面からぶつかり合えば 百パーセント間違いなく義元が勝利したはずです。ただ信長は自分の領地に侵入されていましたから 地理や地形に明るかったし 普段から張っている情報網もあったでしょうし その上天候も激しい雨降りで視界が悪くなるなどの 条件がすべて信長に幸いして 信長は義元の首を取る事だけを目的として戦った事もよかったのでしょうが 奇跡的な勝利を収めました。
当時義元には 明確で有力な後継ぎがいなかったこともあり 大将を失ってしまうと 後は只の寄せ集め軍団に一変してしまいますから 数の上では圧倒していた義元軍が ちりちりバラバラになって敗走していったのです。義元の直属の軍隊も勿論そこそこいたはずですが 所謂親衛隊が義元を守ろうとして 取り囲んでしまったことが 信長軍にとっては 目標を分り易くしてしまったことで 災いしたとも言われています。それ以外の兵士たちは義元と主従関係を結んでいる家来が引き連れた兵士なので 義元が討ち取られた瞬間に その結束のタガが外れてしまったのは しょうが無い事かもしれません。この合戦後 義元の大きな領地は あっと言う間に北条 武田 そして義元軍に加わっていた 徳川に取り分けられて 由緒正しい今川家は消滅してしまいました。まあ戦国時代としては珍しい事件でもなかったのかもしれません。
歴史にたらればは 禁物ですが 桶狭間の合戦で義元が討ち取られていなかったら 後の徳川幕府なんて絶対にありえなかったはずなのです。つまり信長は後々徳川時代になる切っ掛けづくりの舞台で大活躍してしまったと言えるのかもしれません。穿った見方をすれば 秀吉が一旦日本をほぼその勢力下におさめたことも 関ヶ原の合戦で たった一日で徳川の世の中を作り上げるための土台作りだったと言えるのかもしれません。結局は 勝ち残ったものが正義なのかもしれませんから この三人が戦国時代に果たした役割は その後数百年続く徳川時代の基礎を作り上げるための準備だったのかもしれません。
信長としては この一戦での勝利によって 一気に全国にその名前を知らしめた訳だし 家来たちの結束力が大幅に上がったはずです。ただ信長が常人でなかった凄い点は 凡人は自分が若い頃にしでかした 奇跡的勝利に 浮かれて自信過剰になってしまい その後の合戦でもまた 奇跡的な大勝利を夢見て作戦を立ててしまう場合が多いのですが 信長は そんな奇蹟的な事等人生に一度きりと考えて 合戦をする場合 その下準備 合戦場の地理や気候をよく調べ上げて 調略などで敵軍に裏切り者を作って 戦力を低下させ 絶対に勝てるまでの戦力を確保するなどの周到な準備を重ねてから 一気に合戦を始めて あっと言う間に勝利を収めていったのです。まあそんな細かい所にまで気配りのできる信長が 家来の光秀に対する配慮に欠けてしまって 後には裏切りにあって 討ち取られるのですから 皮肉な結末です。
とにかく この日の合戦は日本の歴史の大きなターニングポイントとなりましたから 歴史好きの方としては 覚えておくべき一日なのかもしれません。

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