2月11日 父の四十九日の法要を済ませました

本日は木曜日ですが 建国記念日と言う祝日という事もあり 皆が集まりやすいであろうという事で この日を選びました。近所に住む親せきが十人ほど集まっての 法要でしたが わが家のお墓がある紫峰霊園に 朝の八時半と言う結構早い時間に集合をかけました。お寺さんがお越しになっての法要は 九時からの予定でしたが 始まる前に 「林龍吉に感謝する会」と言うのを 私が企画したからです。このブログに 何度も書いておりましたと思いますが 私は父と非常に仲が悪かったです。昨年の今頃 父の遺言書を預かっている銀行から連絡があって 父と同席してもらって 話がしたいので 実家を訪問して欲しい との連絡が入りましたがその頃まで十年近く 父とは絶縁状態にありました。年賀状のやり取りもありませんでしたし 電話などによる連絡も一切取っておりませんでした。但し 父も93歳になり さすがに死期が近づいたことを幾らか自覚したので 自分が死んだときの対応をお願いしている銀行との顔つなぎのような意味合いで 銀行の関係者に引き合わせたかったのだと思います。
そんなに仲の悪かった父の事ですから お通夜の晩に父の思い出話を親戚たちとしてみても 親戚の方々も ある意味私以上に父に対して 不愉快な思いを度々なさっていたみたいで 私は父の事を 散々にけなす思い出話をしますと それに見合った思い出話をしていただけました。一般的なお通夜の思い出話は あんなことを言われて嬉しかった とか こんなことをしてもらったので有難かった 等と 故人を懐かしみ慈しむ思い出話に花が咲くのかもしれませんが 何しろ私の父は 本当に尊大で傲慢な人間でしたので どうしても悪口大会になってしまいました。このまま皆が悪口を言いたい放題で終わらせてもいいとも思いだしましたが さすがに亡くなった父の名誉のために みんな頑張って絞り出せば 父について一つぐらいは 有難かったり 嬉しかった思い出がないことはないでしょうから 各自一分間ぐらいで発表してもらって 一番感動的なスピーチをしていただけた人には 私からほんのちょっとしたご褒美を差し上げますので 頑張ってください と言う企画を実行しました。従妹が 私の心に一番響くスピーチをしてくれましたので そちらにちょっとしたご褒美を進呈しました。
定刻にお坊さんがお越しになり 四十九日の法要が予定通り始まり 無事に終える事が出来ました。続いて お墓のある場所に移動して 納骨の法要が無事に行われましたので 何とか喪主としての責任を果たせたようでホッとしました。お天気が良くて 風邪も殆どなかったので 屋外での行事になりましたが それほど寒い思いをせずに済んで有難かったです。十時半ごろには 無事に法要が終了しましたので その後実家に戻って 父が書き溜めた油絵のキャンパスを処分する作業に取り掛かりました。男性陣数人でやるつもりでしたが 結局は法要に参加した人間が全員参加してくれましたので 夕方には何とか仕事が片付きました。
キャンバスと言うのは木の枠に布地を釘で打ち付けた油絵を描くための代物なのですが 数十年にわたって 書き溜めたために数百枚にも及ぶとんでもない量でした。私がそれまでに水曜日に一人で実家に戻ってきて カッターで布地を切り取り 鋸で木枠を短く切って ゴミ袋に十袋以上はすでに処分しておりましたが まだ六畳の部屋が殆ど埋まるぐらいは残っていました。私が前日までに カッターナイフで 布地の部分を切除する作業は 八割がた終えていましたので 妹の家から電動丸鋸二台持ち込んで 木枠を切って 短いものはごみ袋に入れて ある程度長いものは紐で括って運べる形にしたものを取り敢えず風呂場に順番に整理しながら並べていきました。
夕方には キャンバスの方の処理は済みましたが 思っていた以上に額縁の量が大きくなりました。父は 百号以上の大きな作品も数十枚描いていましたので それらは金属製の額縁なのですが ドライバーで額縁からキャンバスを外すだけでも 一仕事でしたので 手先の器用な方に担当してもらって何とかスムーズに仕事が進みました。鋸で木材を切りまくりましたので おがくずが床にこんもりと溜まりましたので それらを箒と塵取りで 搔き集めてほぼ仕事が終了しました。枚方市は 普通ゴミとして出せない粗ごみを ゴミ袋か1.5mの紐で括れるものを一つとして合わせて六つまでは 申し込んだらひと月に一回 無料で引き取ってもらえますので 各家庭で六つのごみを引き取ってもらうようにお願いしました。
本日は 父の四十九日の法要を喪主として何とか無事済ませる事が出来ましたし 実家で何とか大量のキャンバスを処分できる形にまとめられましたので 大変でしたが ホッとしました。父の事も実家の大量のごみの処分の事も何とか無事にかっこがつきましたので いい一日でした。

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