3月13日 1578年の本日 上杉謙信が49歳で亡くなっています

上杉謙信という武将の名前は 普通の日本人なら知らない方は少ないと思いますが この呼び名になったのはほんの晩年の短い期間でした。謙信と言えば 武田信玄と並んで 当時は日本で最強の軍事力を持った戦国大名と言われています。自信家であった織田信長が この二人と戦ったら 万に一つも勝てる見込みがないと判断して せっせと貢物を贈っていたのは 有名な話です。確かに信長の軍団は各地で勝利を挙げていましたが 個々の兵隊の実力的には 最弱であったのではないかとさえ言われています。合戦に勝利していたのは その指揮官である武将 例えば秀吉や光秀などの戦術、作戦がすぐれていたので 何とか勝利を収めていたのであろうと言われています。

兎に角上杉軍と武田軍の個々の兵隊の力量は 他の大名を圧倒していたのであろうという説が有力です。それにしても謙信は 19の時に家督を継いで 49歳で亡くなるまでの三十年間 殆ど戦いづめでした。一度二十代の時に 人のうらぎりや怨念に いや気がさして 寺にこもり坊主になろうとした時期がありましたが 直ぐに戦場に引っ張り出されて 戦場に戻ると武人としての習性が呼び戻されて 戦いに明け暮れる人生に戻ってしまいました。

三十年間で戦った回数は記録に残っているもので 実に70回にも及ぶのです。そのうちで謙信が敗れたのはたった二回だけだと言われています。勿論決着がつかず勝敗が明らかになっていない戦いも数多かったようですが ライバルが戦国時代もう一人の最強の戦国大名と言われた 武田信玄であり 北条氏康などの戦上手と言われた大名とも何度も戦って 二回しか破れていないのですから 戦国最強と言われてもしかるべきだと思います。自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じて そのように公言して 旗印として毘の文字を掲げていたのですから 相当な自信家であり 勿論武将としての能力にも恵まれていたのでしょう。

正直な気持ち 男としてはその抜群の強さにあこがれを持ちます。謙信の戦い方は 安全な陣地で武将として采配を振るう というものではなくて自らが先陣を切って突っ込んでいったのだそうです。それほど身長も高くなかったみたいですし 恵まれた体格ではなかったと言われていますが 大将自らが先陣を切って突撃するのでは その家来たちが死に物狂いで働かざるを得なかったから 上杉軍は無類の強さを誇っていたのかもしれません。

男として憧れると書きましたが 謙信は 軍神である毘沙門天の生まれ変わりと名乗っていましたから 生涯女性と接することがなかったのだそうです。連戦連勝軍の大将ですから 戦利品ともいえる相手方の美しい女性たちを ある意味だきたい放題できたのに 一切女性には触れなかったのだそうです。謙信の生き方にあこがれはしますが この点だけは絶対に見習えそうにありません。

まあ何にしても 戦闘に明け暮れた生涯でしたが その幕切れはあっけなかったみたいです。トイレで倒れたのだそうですから 死因としては脳出血が疑われているのだそうです。酒を飲むときに塩辛いものばかりを好んでいたのだそうなので 恐らく相当の高血圧であったのは間違いないでしょう。当時は血圧計なんて存在しませんし 高血圧なんて自覚症状が殆どありませんから 脳出血が突然発症したのでしょう。脳出血という言葉を調べてみたら 脳出血で亡くなった有名人としては 福沢諭吉さん、北里柴三郎さん、佐藤栄作さんなど大勢いらっしゃいますが その筆頭に謙信さんが挙げられていました。

武将としての強さは抜群でしたが その性格は礼節を重んじて 助けてくれと頼まれたら嫌と言えない ある意味優しい人物だったみたいです。男としては抜群を強さを持ちながらも 優しさを併せ持っていた方みたいなので やっぱり憧れてしまいます。若くて美しい女性を抱きたい放題だったのに 一切女性に触れなかったことには 若干違和感を感じますが 自分の決めたことを貫き通す意志の強さにも やっぱり尊敬の念が堪えません。

歴史の話に「たられば」が厳禁であることは重々承知していますが 謙信があと十年長生きをしていれば 恐らく謙信は過去の伝統を重んじる性格ですから 織田信長を蹴散らして 足利将軍を擁立したでしょうから まだ当分は室町時代が続いてその後の日本は現在とは全く異なっていたように思います。信長が本能寺で討たれていなかったら なんていう「たられば」も誰もが考える事でしょうが 現在がどの様な日本になっていたのか 想像してみるのも一つの歴史の楽しみ方ではないでしょうか。

 

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