6月13日 明智光秀が山崎の合戦に敗れて 小栗栖村で死亡した日だそうです

1582年の本日明智光秀が55歳で農民の手にかかり死亡したのだそうです。私の父が司馬遼太郎のファンで殆どの小説を買い揃えていたので その殆ど全てを私は読破しました。ですから 明智光秀についてはいろんなイメージを重ねて持っています。若い頃に自分が使えるに足る主君を探して流浪した時代や 義昭将軍を信長に引き合わせて 信長に仕官し 非常に順調に出世した日々、様々なストレスからついには周到な準備をして主君信長を裏切り本能寺の変を起こした頃 それぞれに精一杯生きていた光秀が私は結構好きな歴史上の人物です。

信長は恐らく歴史上の人物で最も人気のある人物だと思います。私も無神論者ですから 信長が日本の宗教を忌み嫌ったところには 大いに共感します。比叡山を焼打ちにした時に 光秀などが名高い高僧の救命を嘆願しましたが そのような高僧が存在するから 肉を食らい女人を抱く生臭坊主までが 敬われるのだと言って 高僧こそ尚更見逃さずに処罰しました。信長が比叡山でやったことは残酷極まりない恐ろしい事ですが きちんとした筋が通っていてぶれることのない行動ですから それなりにカッコ良かったし 既成概念にとらわれない 尊敬に値する事かもしれません。

しかし、そんな信長に徐々についていけなくなったのが光秀でした。ただ信長の家柄や過去にとらわれずに能力重視で部下を登用することで光秀が凄く速く出世したことも間違いありません。流浪の身の自分の能力を高く評価してその能力を存分に発揮する機会を与えてもらった信長に 無論感謝する気持ちもあったと思いますが その思い切りの良すぎる人事異動によって ついには拭いきれない信長への不信感から 主君殺しの汚名をかぶることを承知の上で 本能寺の変に向かった光秀の気持ちは 常人がそこまで窮地に追い込まれることなどありませんから 簡単に理解できないことだと思います。

主君殺しの汚名をかぶり その汚名のマイナスイメージが予想以上に大きくて 結果的には三日天下に終わり 名もない農民の落ち武者狩りにあい 光秀は命を落としました。残念な結末ですが 信長を裏切らざるを得ないところまで追いつめられたために 頭脳明晰な光秀には珍しく 人の心の流れを読み違えました。協力を期待していた友人から総スカンを食らってしまいました。

客観的に見て その後の歴史の流れを知っている私には 非常に残念な光秀の判断ミスだと思います。信長が光秀に厳しい試練を与えたのも 光秀ほどの能力をもってすれば 乗り越えられるだろうという 高い評価の表れだと思います。光秀は苦しくてもその高い評価に応えるように頑張れば 時代の展開は全く異なるものになり 光秀の評価も人気もずっと高く後世に鳴り響いたと思います。まあ、歴史の話に「たら」「れば」を持ち込むのはご法度だと思いますので この辺りで終わりにしようと思います。それにしても光秀が亡くなったのが55歳と私よりもずっと若いのがショックです。私は57歳なのに 後世に残るようなことを何一つ成し遂げていません。平凡な一市民としては当たり前の事かもしれませんが、男子として生まれてきたからには 一つぐらい名前の残ることをやってみたいと思いますが 現実には無理でしょうね。

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