6月13日 1582年の本日 明智光秀が山崎の戦で敗れて 小栗栖村で亡くなりました

55歳で亡くなられたのですが 自分よりも若い年齢で命を落とされていることが 最近は徐々に慣れてはきましたが 最初に気づいた時にはかなりショックでした。子供の頃からよくテレビで見ていた高校野球のプレイヤーが 自分よりも年上であることが当たり前だったのが いつの間にか年下の子たちになっていたことに気付いた時と同様に 自分が年をとったものだと実感させられたのと同様の現象かもしれません。

明智光秀に関しては 主君に対して謀反を起こした反逆者 と言うイメージが強すぎて 歴史を語る時には 凄く悪者扱いをされています。このブログを書くためにウィキペディアなどで 光秀の人生の歩みを再確認してみましたが やはり足利義昭との仲介役を務めたとはいえ 身分としては単なる浪人者に過ぎなかった 光秀の類まれなる能力を見出して 信長の家臣団の中でも最上級の待遇を受けるまでに上り詰められたのですから もう少し辛抱が必要であったのではないでしょうか。

信長が苛烈極まりない主君であったことは明白であり それに仕える家臣たちが その逆鱗に触れないように 怯えながらも細心の注意を払っていたことは有名です。信長は長年の因縁など気にもかけず 過去何代も使えていた家来達でさえ 無能であれば 簡単に切り捨てていました。逆に光秀のように殆ど流れ者のような境遇の身の上でも 能力さえあればその能力を発揮する機会を与え そこで活躍すれば これまでの経緯にとらわれずに評価して ある意味信長の家来の中で出世頭のような立場に置いてもらえたのです。

自分の母親を人質に差し出してまで 懐柔した相手を信長があっさりと裏切って殺害したために 当然人質として差し出した母親は殺されてしまうという辛い思いをしたときは何とか辛抱しました。しかし自分が苦労して 母親を犠牲にしてまで攻略した丹波の国の 精魂込めての国づくりがほぼ完成した時に 取り上げられて未だ敵国である領土を切り取り次第で光秀に与える と言う過酷な試練を与えられた時に 我慢の限界が来てしまいました。

光秀の失敗は ひょっとしたら主君選びにあったのかもしれません。足利義昭を神輿として担いで 光秀が最初に向ったのは 越前の朝倉でした。北陸の雄として名をはせていた名門大名でしたから 不思議ではありませんでした。しかし 朝倉家は古い保守的な考え方に支配されていましたから 光秀自身は殆ど優遇されないし 神輿として担いだ義昭を上洛させる意欲が全くありませんでした。

そこで 義昭を担いで上洛してくれる勢いのある大名を探した時に 織田信長がセレクトされたのです。確かに信長は 桶狭間の戦いで今川義元を破り 宿願であった美濃斎藤家を倒して美濃の国を手に入れて 勢いがありました。その当時の戦国大名としては 上杉謙信、武田信玄がその軍事力としてはずば抜けていたと言われています。この二人はある程度伝統と格式を重んじていましたし 間違っても比叡山を焼打ちにするような暴挙にはでない位の信仰心は持ち合わせていたはずです。

この二人の方が ある意味光秀にずっと近い武将としての政治感覚の所有者であったのかもしれません。歴史に「もし」「たら」は厳禁ですが もしこの二人の軍勢が織田軍と正面からぶつかったら 織田軍は壊滅していたでしょう。ただこの二人は年齢と健康上の問題で 織田軍とぶつかる機会を得られませんでした。本国が京都からはるかに遠かったことも大いに災いしたのかもしれません。

光秀が 考え方の近かったこの二人か せめて信長よりは狡猾であったのかもしれませんが温厚であったと評判の徳川家康を主君に選んでいたなら 謀反を起こすほど追い込まれた状態にはなっていなかったのかもしれません。但し 信長のように過去のいきさつにとらわれないで 本人の能力だけを評価する主君でなければ 名前だけの将軍候補を神輿として担いでいたとはいえ 殆ど流れ者の貧乏侍であった光秀を評価して 活躍の舞台を与えていたのかどうかは 凄く疑問に思われます。

本当に歴史を振り返る時に 「もし」は厳禁ですが 信長が日本を統一していたならば どのような世の中になっていたのか みてみたいものです。

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