9月3日 本日は単なる語呂合わせで 草野球の日なのだそうです

野球は プロ野球は小学校の時から ドラゴンズ一筋に 熱心に応援しておりました。小学校の体育の授業で ソフトボールは経験しました。守備位置は 大抵センターか レフトで打順は 殆ど五番か六番辺りでした。小学校の時は クラス対抗で試合が行われたりしていました。活躍すると 女子から拍手を貰えましたから 家でこっそりバットを素振りしたり 父親とキャッチボールを繰り返したりして 自主練習を頑張っておりました。中学 高校とやはりソフトボールばかり体育の授業で経験しておりましたので 野球 いわゆる上手投げのピッチャーの玉を打つのは 塩野義製薬に勤めていたサラリーマン時代だけです。塩野義のいわゆる病院担当のの営業マンでしたので 大学病院を主に担当する部署でしたから 大学の各科の医局ごとにあるチームと よく地方の球場を借りて 接待野球をしておりました。
会社でちゃんとユニフォームまで作ってあり ポジションも大体決まっておりました。私は若手の下っ端でしたから 接待野球の日には さぼることは許されず 更には弁当やお茶の準備まで押し付けられましたから 幹事役が回ってきたときには かなりしんどい思いをしました。ある時など 審判を頼んでいた人が 急に病欠しましたので 審判役まで回ってきて 緊張したし 野球の審判なんて全然やったことがなかったので 相当に戸惑いました。基本的には 接待野球ですから 先生方のチームに甘めに判定していれば それ程問題は起こらないはずですが 余りに偏った判定では 先生方からも首を傾げられてしまいましたし 相手をしている会社の先輩方からも クレームがつきましたので 相当に気を使いました。これなら選手として出場して エラーやチャンスで三振をしていた方が よほど気楽でした。
まあ接待とはいえ 球場を借り切って ナイターでゲームをするのですから 楽しくなかったかと言えば そこそこ楽しかったように記憶しています。普段は会社の机に向かっているときには 気難しい顔をしている先輩が やたらとテンションが上がって にこにこしていたのには 驚きましたが 社内ではよぼよぼしていたように思っていたかなり年上の先輩が 実は我が塩野義チームのエースであったのには 魂消ました。かなりの快速球を投げ込んでいました。自分のチームのピッチャーでしたから 打席に立ったことはありませんでしたが とても打ち返せそうには思えませんでした。
接待野球の予定が組まれると 先輩方と昼ご飯の後などに 近所のバッティングセンターに出かけたことを覚えています。大学にいたころ 同じ研究室に バッティングセンターが大好きな友人がいましたので その子に付き合ってちょくちょくバッティングセンターには出かけておりましたので センターの玉を打ち返すのは 慣れていましたので そこそこの当たりを連発しました。その為に 私の打力を過大評価されてしまって スタメンで六番バッターに選ばれてしまいました。但し私は 人間が投げる球を打席に立って打ったことは一度もありませんでしたので 試合の実戦では全くタイミングが合わなくて チャンスに三振ばかりでした。最後の打席も やはりチャンスで回ってきてしまって 代打が出されそうになりましたが 代打に指名されそうな人が突き指をして無理だったので 何とか運よく打席にたてました。
それまでのタイミングの合わない空振りの連続に 相手のピッチャーが舐めてかかってきて わざとタイミングを外すような緩い球を投げてきました。私はどうせ最後なんだから 思い切り振って三振してやろうと開き直っておりましたので 全く緊張しておらず その緩めの玉をしっかり見て振ったら 運よくタイミングがあってしまって センターオーバーの起死回生のロングヒットになってしまって その試合の最高殊勲選手にまで選ばれてしまいました。但し運が良かったのか悪かったのか 分かりませんが そのためにやはり私の打力を過大評価されて スタメンで出場することが続いて 大変でした。暇さえあれば バッティングセンターに通っておりましたので 人間の投げる球を少しずつ打てるようになってきましたので 楽しくなってきました。
但し 塩野義製薬を退社してからは 野球をやる機会が全くないので キャッチボールですらしたことがありません。まあ普通の大人なら 当たり前かもしれませんが 還暦を過ぎて入れてもらえるチームなんてないでしょうし 下手に張りきったら 寿命を縮めるだけなんでしょう。でもキャッチボールぐらいは 奥様が高校時代ソフトボール部のレギュラーだったのだそうですから 仕事を引退したら やってみようとひそかに考えております。

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