10月13日 本日は引っ越しの日なのだそうです

明治元年 明治天皇が京都の御所から 江戸城つまり現在の皇居に引っ越しをされた日なので 本日を引越しの日と言うのだそうです。還暦まじかの私は子供の頃から何度も何度も引っ越しをした経験があります。私にとっての最初の引っ越しは 父の転勤によって 福岡県から枚方の香里団地への引っ越しです。当時は新幹線がありませんから博多発の特急に朝一番で乗って 大阪に着くのが夕方でした。私は大阪で幼稚園に一年通いましたから 四つか五つ位 妹は二つ年下でしたから ひょっとしたら母親に背負われていたのかもしれません。父親がその夜の為だと思いますが 布団袋を担いで運んでいたのを覚えています。それまでも団地住まいでしたから 同じ団地に越してきたので違和感はなかったように思います。引っ越しの前後は殆ど覚えていませんが 布団袋を担いだ父親に導かれて 新しい部屋について凄くホッとした事だけはよく覚えています。
二度目の引っ越しは 中一の時でした。香里団地は2DKで親子四人が住むには狭すぎます。父親が何年もかけて探し回って やっと現在も父親が暮している交野市松塚の一戸建てのうちに引っ越しました。このうちは当時5LDKもありましたから とんでもなく広く感じました。私は自分の部屋として 二階の一部屋を与えられましたが 当初は他の家族の寝室は一階にあり 夜になると私一人が二階に上がらねばなりません。私は何度も告白していますが 筋金入りの腰抜け野郎でしたから 中一になっていましたが 誰もいない二階に上がることが 相当に怖くて辛かったです。直ぐに自分の部屋がある事の有難味を実感しましたが 最初は恐ろしくて寝るときになかなか部屋の明かりを消すことができませんでした。
そのまま大学を卒業して 塩野義製薬に就職しました。勤務地が金澤に決まったので 三度目の引っ越しをしました。待望の一人暮らしでしたが 塩野義製薬が用意してくれたアパートは2LDKと言う一人暮らしには十分すぎるアパートでした。同じ棟に会社の先輩が数人いらっしゃいましたので それほど孤独を感じないで済みましたが 掃除や洗濯はこれまで母に頼り切っていましたから 情けない話ですが当時は全自動ではなかったので 洗濯機の使い方さえよく分らず困りました。料理は趣味でもあるので苦痛ではありませんでしたが 掃除と洗濯は面倒でした。引っ越しは会社が手配してくれた引っ越し会社にすべてお任せだったので楽ちんでした。
二年後に金澤から富山に勤務地が変わったので 又引っ越しました。またまた引越し屋さんにお任せなので荷物を段ボール箱に詰めるだけで簡単でした。金澤と富山は関西人から見れば同じ北陸であり似たり寄ったりでしたが 富山の人の金沢に対する対抗意識が強いのには驚きました。気候は裏日本なので年が明けると雪に埋もれる生活で 殆ど五十歩百歩だと感じました。この頃には一人の生活にもだいぶ慣れてきましたし 掃除や洗濯も要領よくこなせるようになっていました。しかしこの地で働いているうちに 塩野義での仕事に疑問を感じだして 一生続けていけるか自信が無くなりました。中学の頃から憧れていた獣医師への夢も捨てきれずにいました。結局悩んだ末に会社を辞めて もう一度獣医師になるために大学を受験することを選択しました。
会社を辞めましたから 当然実家に戻ったのですが この時は実家に舞い戻るための移動でしたから 富山で殆どの荷物を処分して 殆ど身一つで実家に帰りました。そこから心機一転して受験勉強をやり直して岐阜大学を受験し無事合格しましたので 今度は実家から大学の近所の下宿へ引っ越しました。自分勝手な選択で やり直す二度目の大学生活でしたから せめてもの親への仁義を通すために 経済的な援助は一切受けないことにしましたので 最初の下宿は 風呂なしでトイレも台所も共同と言う かなり厳しい条件の下宿でした。何しろ六畳一間しかありませんから 荷物も最低限の身の回りの物だけを持って家を出ました。足りないものは少しずつ大学の生協で買いそろえていきました。
塾の先生のアルバイトで 月に十万円以上も稼いでいましたので 二年になった時に せめてトイレと台所のある下宿に移りました。この時の引っ越しは クラスの友人が手伝ってくれましたので たすかりました。まあ荷物が少なかったので簡単だったのかもしれません。風呂はありませんでしたが 同じアパートに同級生がいましたので 頼み込んで貸してもらっていました。四年生になり授業や実験が忙しくなってきたので 大学からごく近くの下宿に移りました。この時は立命館時代の先輩がトラックを貸してくださいましたので それで引っ越しました。徐々に荷物が増えてきていましたので 結構大変でしたが 何しろお金がないので 取り敢えずは自分が頑張ることで乗り切りました。
大学を卒業してから勿論また実家に戻りました。この時も荷物は殆ど処分してもてるだけ荷物を持って家に帰りました。そして当地で開業した時に病院の二階へ最後の引っ越しをしました。当時は病院の二階が凄く狭かったので 大して荷物も運べなくて やはり簡単に引っ越せました。病院の二階を増築してまともに生活できるようになってから また徐々に荷物は増えていっているみたいです。今の仕事を引退した時に 私の人生の最後の引っ越しがあるはずです。南の島に終の棲家を建てるつもりですから そこで私の人生は終えられるはずです。全部で何回引越ししたのかさえよく分りませんが 早く最後の引っ越しを終えて のんびりしたい気持ちです。

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