11月3日 1521年の本日 武田信玄が生まれました

武田信玄は 私が戦国大名のうちで 最強の軍団を率いていたであろうと認識していますので 単純にその強さへの憧れから 一番好きな戦国大名です。武田家は本来甲斐源氏の嫡流でありましたから 甲斐一国を治める正式な守護大名でしたから 家格としては 名門と言えますが 先先代の頃に 国内で力をつけた家臣たちがのさばり出して好き勝手な行動を取りました。先代 即ち震源の父親の代に甲斐の国を武力で取りまとめましたから 戦国大名ともいえるのかもしれません。
信玄のイメージを貶めているのが 実の父親の追放 と言う事実かもしれませんが 正室との間にできた二男を可愛がり過ぎた父親との確執と言うのは 戦国時代にはザラにあった出来事かもしれません。信玄の父親は バラバラになってしまった国内を統一する と言う武将としての能力は 高かったのかもしれませんが 家族の気持ちをまとめて統率する能力に欠けていた と言えるのかもしれません。実の子であり ましてや長男でもあった信玄を 跡取りとして育てられなかったのは 後の信玄の活躍ぶりを考慮すると 人を見る力がなかったために 身内から追放されてしまう と言うある意味武士としては一番情けない人生の結末ですから 悲しい出来事ですが 自分の判断ミスですから致し方が無かったのかもしれません。
信玄が家督を継いでから 積極的に領土を拡大していきましたから 武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達していたのだそうです。その時点で 武田家は領土の規模からみても その軍団の勢力と実力からみても 日本最大の戦国大名と言えたのかもしれません。但し領土を目いっぱいに拡大してしまったために 東には北条、北には上杉、南には今川や徳川 と言った実力のある戦国大名に囲まれていましたから それらの国と争ったり 同盟を結んだりしながら 何とか均衡を保つのが精いっぱいだったのかもしれません。
それにしても 自尊心の非常に強い織田信長が 信玄にだけは絶対に敵わないことを 十分に自覚していましたから 自分の娘を人質として差し出したり こまめに高価な貢物をして 盛んにこびへつらっていた位ですから 当時の一般的な認識としては やはり信玄が最大にして最強の戦国大名であったと言えるのかもしれません。信玄の不幸は 生まれついた国が京都から非常に遠い甲斐の国であったことのように思います。
今川義元を織田信長が倒して 今川の勢力が落ち込み 北条氏政が三杯汁で知られるたわけ者でしたから その隙をついて上洛しようとした道中で 取り敢えずは徳川を叩きのめして 続いて織田を蹴散らす寸前に病に倒れ命を落としましたから 何とも残念な結末だと思います。信玄は信長とは異なり 伝統と格式を重んじる性格でしたから 歴史を語るうえで「たら」「れば」 は厳禁ですが もしも信玄が信長をも蹴散らして上洛していれば 恐らくは室町幕府があと何代か続いていたように思います。勿論そうなれば 徳川の時代が来ることは永遠になくて現在とは全く異なる日本になっていたように思います。
信玄と並び称される上杉謙信は 非常にストイックな性格で 大名ですから 若いぴちぴちの女性を抱きたい放題の立場にあったのに 生涯女性に触れることがなかったのだそうです。立派と言えば凄く立派なのかもしれませんが 謙信が凄く優秀な武将であっただけに その遺伝子を受け継いだ後継者がいれば 養子の景勝のような無能な男が後継者にならなくてすんだはずで やはり戦国時代の結末は大きく変化していたように思います。大名にとっては 血のつながった後継者を作ることも非常に重要な仕事の一つのはずですから やっぱり謙信は 己を高めることに凝り固まりすぎて 一番安易な欲望 性欲を断ち切ったのだと思いますが 好きにはなれません。
私の様に煩悩が強すぎると 還暦まじかになった現在でも 乃木坂のメンバーを抱きたくて堪りませんから 正直恥ずかしいのですが 人間なんてそんなものでしょう。そんな意味でも結構子だくさんの信玄の方が好感が持てます。結末としては残念な形ですが 領土を拡大して 強力だ軍事力を確立した戦国大名としての生きざまは 凄くカッコよくてあこがれてしまいます。

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