2月9日 1834年の本日 江藤新平が誕生しました

江藤新平と言う名前を聞いて 直ぐにピンとくる方は 幕末から明治維新の頃の歴史にかなり興味のある方だけかもしれません。ただ「維新の十傑」と言う明治維新に貢献した十人の名前をあげるときに 殆どが薩摩と長州の人間で占められているのに 肥前藩から唯一選出されている人物ですから もう少し知名度が高くてもいいように思います。同じく「佐賀の七賢人」にも 名前を連ねていますが そこには大隈重信も選ばれています。この方の名前を知らない人は珍しいと思いますが 客観的には 江藤新平さんの方が ずっと明治維新で活躍した 大物だと思います。

えらそうに江藤新平さんの事を語っていますが 私が江藤新平さんについて知ったのは 司馬遼太郎の小説「歳月」を読んだからに過ぎません。この小説は 父が司馬遼太郎さんの大ファンで その著書を殆ど所有していましたので 一つ目の大学時代に 暇な時にたまたま手に取って 読んでみただけの事です。勿論この小説を読むまでは 江藤さんの名前すら聞いたことがありませんでした。

そのずば抜けたその知性は 無能な私から見れば 憧れの存在でした。若い頃に脱藩して京都で一時期 志士として活動してから 肥前藩に舞い戻りました。当時は一度脱藩すれば 死罪が常識でしたが 藩主が新平の並外れた知性を高く評価したために 無期限での蟄居が命じられました。蟄居処分を受けてからも 地道に政治活動を続けたために 明治政府が確立されるときに 藩の代表として派遣されました。並外れた知性により 主流派の薩長出身の中で 活躍して すいすいと昇進し 大きな仕事を幾つも成し遂げたので「維新の十傑」にも名前を連ねることになったのでしょう。

只 人並み外れた能力とともに 正義感が強すぎたのが 仇となったようです。明治政府の役人の 特に長州閥の役人の汚職を過激に追求しすぎてしまったがために 政府内に敵を作り過ぎてしまったようです。昨日も書きましたが 役人が当たり前に正義感を発揮してしまうと 結局は出る杭は打たれるの言葉通りに 言いがかりをつけられて 政府から追い出されてしまいました。結果的には大久保利通の策略にはめられた形で 佐賀県に戻り佐賀の乱の首謀者として祭り上げられてしまい 当然のように政府軍に破れてしまい 重大犯罪人として 扱われて キチンとした裁判もうけられずに 極刑を言い渡されて その首を晒される と言う惨めな形で 四十一歳と言う短い生涯の幕を閉じました。

大隈重信は 同じように政府から冷遇されましたが 上手く立ち回って その後首相にまで昇り詰めて その最後は国葬と言う最高の幕の閉じ方でしたから 一つ選択肢を間違えたために 人生はこうも極端に変わってしまうという事を知り かなりショックを受けた事をよく覚えています。老い先短い私には 何時ごろ仕事を切り上げるか しか大きな選択肢は残っていませんが 慎重に見極めて 後悔が少ない選択を心掛けようと思います。

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