5月19日 1560年の本日 桶狭間の戦いがありました

桶狭間 正確には田楽狭間なのだそうですが その地で 織田信長が今川義元を討ち取って その名を世間にとどろかせた大事件でした。総勢四万の軍勢を率いていた義元が ほんの数千名の織田方に敗れたために 間抜けで無能な大名として 有名になってしまいました。義元は 今川家の三男坊でしたから 家督を継ぐ可能性は殆どなくで 若い頃に出家して坊さんの道を歩むはずでした。しかしお寺で修行をしていた時に出会った 太原雪斎 と言う人物が 非常に切れる方だったみたいで 後には今川家の軍師として、義元の側に仕えることとなりました。この雪斎の導きにより 義元は今川家の家督を継ぐことになったらしいです。
今川家はもともと大変な名門で 足利家から将軍がたてられない事情になった場合には 今川家のものが将軍職に就く可能性がある位でした。そんな名門今川家の跡目を継いだ義元は 戦国大名として非常に優秀な人物であったと言われています。戦国武将としてせっせと領土拡大に励み 北の武田家 東の北条家と同盟を結ぶなど外交感覚にも優れていました。北と東の脅威がなくなってからは西に向かって領土を拡大して駿河、遠江、三河の三国を支配下におさめて 今川家で最大の領土を誇っていたのです。政治家としても優れていて キチンとした検地を実施して 経済のしっかりとした基盤を築いたり 寄親寄子制度で家臣団の結束を高めたと言われています。
そんな風に戦国大名として優秀であった義元は 国力が充実して年齢も四十を過ぎたので いよいよ上洛して天下に号令しようとして西に向かって進軍を始めました。そもそもの国力や軍事力に大きな差があったので 尾張の国を簡単に踏み潰して上洛しようとしたのが間違いの元だったようです。当時の織田信長は いわゆるうつけ者としての評判しかありませんでしたから ある程度舐めてかかったのも致し方の無い事かもしれません。
しかし信長がそののちの活躍で全国を統一する一歩手前で挫折はしましたが 非常に優秀な武将であったために 不覚を取って命を落としてしまいました。たまたま天候などが信長に味方して たまたま奇襲を受けやすい地形の土地で休息を取ってしまったために 命を落としてしまいました。非常にアンラッキーな条件が重なってしまったためにある意味人生の絶頂期に不覚を取ってしまいました。
歴史を語る時に「たら」「れば」は厳禁のはずですが 義元が順調に上洛していれば 勿論信長の大活躍も始まらなかったでしょうし 当時今川家に人質として存在していた家康が幕府を開くことも絶対にありえなかったはずです。絶頂期にあった義元が死んだために 後を継いだ氏真がまだ若くて 戦国大名としての才覚に全く恵まれていなかったので あっと言う間に今川家は崩壊してしまいました。
すんなりと義元が上洛できていれば まかり間違えば将軍にまでなっていたかもしれませんから 人の人生は儚いものだと思います。私ももうすぐ還暦を迎えますから いよいよ人生も終盤に差し掛かってきました。これまでも普通の人よりは 波乱万丈だったかもしれませんが 何とか落ち着いた状態で還暦を迎えられそうです。あと数年仕事を頑張ったら 速やかに引退して 軽やかな老後を過ごしたいと考えております。その為には これから今更逆転満塁ホームランなど全然期待してはいませんが 取り敢えずは健康で 無事の病院を続けていければとだけ 考えております。このブログをお読みの方々も あと少しだけ宜しくお付き合いください。 

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