6月2日 1582年の本日 本能寺の変が起こりました

歴史について語る時に「たら」「れば」は絶対的な厳禁であることは 誰もが承知しているはずですが 本能寺の変が起こらなかったら 信長が順当に日本を統一していれば と考えた事の無い日本人は 極まれなのではないでしょうか。日本の歴史上の人物で人気投票をすれば 間違いなく織田信長は一番になるはずです。ジェームスディーンと同じで 人生これからと言ったところで 亡くなってしまったので 余計にその先への期待感が膨らみ 人気があるのかもしれません。
話がちょっと自分の事になってしまいますが 私は自分が無神論者であることを幼稚園に通いながら痛感していました。通っていたのが 今では影も形もなくなってしまいましたが カトリック系の聖母幼稚園だったからです。毎朝 礼拝堂のような場所に集められて 修道女の様な身なりの先生から 有難かったのかもしれませんが 当時の私には 退屈この上ないお説教をしていただきました。それから始まるのが 手を合わせて 目を閉じての お祈りタイムなのです。当時も現在も 神様の存在をまるっきり信じられない私にとっては 実際にはほんの数分間の事だったのでしょうが 分けの解からないお説教で退屈し切っていた私には 永遠の様に感じられた まるでお仕置きを受けているような辛い時間でした。
私の一人目の奥さんが 枚方で幼稚園の先生を十年以上も勤めていましたが 自分の幼稚園時代は 地獄の様に辛かった と話したら 私の性格には 一番そぐわない幼稚園に通っていたので そんなにつらい思いをしたのだろうと 言われました。正直な所 お祈りの時間のない 小学校に上がった時に 私はとても楽しくなって いそいそと学校に喜び勇んで通っていました。勿論何か問題が起こると 先生からのお説教はありましたが 何かしら悪い事をした輩がいるので その責任を追及されたり 反省を求められるのは 当然のことだと納得できましたので 自分に無関係のお説教であっても 聞いていて それほど退屈はしませんでした。
私が信長を好きなのは 無神論者で 日本の宗教を否定してかかったところです。仏像とはそもそもの素材を それが石であれ 木材であれ 金属であれ 人間がもっともらしく形作っただけの代物である と断言して破壊してしまったことです。重要な芸術品が失われてしまったことは 勿論惜しむべきことですが 当時は 現在ほど科学的に神仏の存在を明確にそして理論的に否定できなかったはずなのに 信長は自分の信念に基づいて行動しましたから 称賛に値することだと思います。比叡山の延暦寺を焼打ちにしたとき そりゃたくさんの坊主がいたのでしょうから 中には本当に難しい修行を成し遂げた 心底から功徳のある僧侶も少なからずいたはずですが そのような尊敬に値する本当に徳を積んだ僧侶が存在しているから そのお説教で人々の心をつかんでしまうしまうのです。僧侶と言う身分 袈裟を着て頭を丸めた外見だけで 私利私欲のために人々を間違った方向に先導する坊主であっても 人々は簡単に騙されてしまいました。だからこそ 徳の高い僧侶の存在自体が罪に値すると 信長は判断してしまったのです。
罪のない人を殺めること自体は 私も勿論肯定できませんが 私利私欲に走る生臭坊主が横行する事と 徳の高い僧侶が混在することが 世の中の為にはならない と言う判断自体は あながち間違いではないのかもしれないと 考えてしまいます。信長は そんな生臭坊主の存在が許せなかったので 日本の宗教全体を否定したのかもしれません。後になって 外国の宗教 キリスト教に対しては 寛大な姿勢で受け入れていましたから まるっきり信仰心と無縁の考え方ではなかったのかもしれません。
武家の棟梁である将軍に対して 勿論一定の敬意は示しましたが その存在が自分の成し遂げようとする仕事にとって凄く邪魔な存在になった時に 最終的には それでも殺してしまわないで 追放してしまいました。しかし天皇陛下に対する尊敬の概念は 一般の日本人と同様に持ち合わせていたことが かなり不思議に思えます。日本の天皇陛下ほど 一国の元首として 由緒正しい歴史を 長年にわたって保ち続けている例は 世界には全くありません。
私自身 天皇陛下について 両親から特別に教育を受けたわけではありませんが 極普通に受けた学校教育によって 自然と天皇陛下を敬う気持ちが身についています。私は政党において 自民党が大嫌いで その主義主張としては共産党の言い分が 時代に流されてぶれたりしないので 一番説得力を感じさせてくれると思っています。但し共産党の人間には 天皇陛下を敬う気持ちが全くないようなので 共産党を全面的に支持する気持ちにはなれません。
話が横道にそれてしまいましたが 信長は将軍でさえ 追放処分にしましたが 天皇陛下に対しては 間違いなく尊敬の概念を示していましたから やっぱり日本人なのだなあと 身近に感じられて 尚更大好きな人物です。結局は明智光秀によって滅ぼされましたが 二人の出会いがお互いにとってどのように解釈すればいいのか 歴史上難しい判断だと思います。光秀は 後に十五代将軍となる人物を抱えて 強力な保護者 上洛して幕府を再興してくれそうな実力者を探していました。たまたま自分の出身地を支配していた信長に注目したために 二人は出逢ってしまいました。
信長は人物の力量を見抜く抜群の能力を持っていましたから ふらりとあらわれた一介の浪人でしかなかった光秀に 武将として そして政治家としての 超一流の才能を見抜いてしまいましたので あっと言う間に信長の家臣団の出世頭にのし上がってしまいました。信長にとって 家臣はある意味仕事をするための 道具と同じ感覚でとらえてしまっていたから 光秀と秀吉の二人は 飛び切り有能で便利な 道具でしたから 家柄や出身にとらわれずに 思い切り取り立てて 有効に使いこなそうとしました。
光秀は本能寺の変を起こしてしまったがために 稀代の悪者 最凶の裏切り者 としての印象が一般的です。しかし光秀が統治した国々では 領民たちおもいの政治を行ったので 素晴らしい名君として称えられているのです。私は光秀も 決してとんでもない悪党だとは思いませんが つかえた主君との相性が 最悪だったように思います。信長が四方八方を敵に囲まれていた時代に 光秀の武将としての大活躍によって救われた場面が沢山ありました。だからこそ新参者の立場にありながら 出世頭に上り詰めたのです。もし光秀と言う 非常に優秀な武将を過信として取り立てていなければ 信長包囲網に信長は破滅させられていたのかもしれません。
光秀は 信長と出会わなくても 他の大名に使えていたとしても その秀逸な能力によって一角の大名にのし上がっていたかもしれません。但し当時の風潮としては 家柄や出身などが武士の出世に大きく関与しましたから 信長に使えていなければ 恐らく歴史にこれほど名を残す存在とは なっていなかったと思います。
歴史を語るのにたら」「れば」を連発してしまい申し訳ありません。でも もし織田信長が日本を統一して織田幕府を開いていれば 少なくとも数百年に渡す鎖国政策などはありえなかったでしょうし 本当に全く現在の日本とは異なる国が出来上がっていたのでしょうから どうしてもそちらに興味が湧いてしまいます。勿論 その場合は自分と言う存在自体がありえないことは分っているつもりですけれど。
こんな話を始めると 本当にエンドレスで語りたいことが次々にわいてきて切がありませんので 本日はこれで終了します。どうでもよい事ばかりをダラダラとかきならべてしまいました。本当に御免なさい。

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