8月1日 1590年の本日 家康が江戸城に入ったのだそうです

全国統一を目指す豊臣秀吉にとって 最後に残った巨大勢力であった小田原の北条氏を倒したときに その戦の恩賞として 秀吉が家康に関東一円を領土として与えたことが切っ掛けなのだそうです。家康にしてみれば 先祖代々受け継いだ三河の土地や せっせと周辺から切り取った駿河 遠江、、甲斐、信濃などを取り上げられましたから 手放しでは喜べなかったのは 当然でしょうが 広さと禄高としては 膨大な領土でしたから ましてや日本統一を成し遂げた秀吉の絶頂期ですから 嫌とは言えずに 関東への移動命令に 従わざるを得なかったのでしょう。
ましてや 当時の関東地方は 日本の中心である京都から 遥かに離れていましたから とんでもない遠方に左遷させられてしまった と言えるのかもしれません。秀吉にしてみれば 自分の主君であった信長の盟友である家康ですから その能力や人格、人望の厚さなどから 謀反を心配して 遠く関東に追いやり その手前の東海道筋には 絶対に自分を裏切らない大名を並べて配置して 安心したかったのだと思われます。但し 京都からは遠いけれど 非常に広くて将来性のある関東地方を丸々与えてしまいましたので ある意味トラを野に放ったようなものですから 家康がどっかりと関東に根を下ろして 馴染みのない土地柄ではあったのでしょうが 領土支配に邁進しましたから その後江戸で幕府を開いて 江戸即ち東京が日本の中心地になりました。
家康が入城したのは 室町時代の武将 太田道灌が築城した砦に毛が生えた程度の 貧相な城だったようですが その後将軍の後継者たちが 改築 増築工事 を繰り返しましたので 日本ではとびぬけて大きくて壮大な城になっていったと言われています。時代劇で登場する江戸城は 凄く美してく立派ですが 改築 増築が完成したのちの姿だと思った方がいいらしくて 家康が入城したころの江戸城は かなりみすぼらしかったとらしいと思っていた方がいいようです。もし家康が関東に移どうさせられていなければ 愛知県や静岡県辺りで領土を広げてもらっていたとしたら ひょっとしたら名古屋辺りが日本の中心地になっていたのかもしれません。
家康にしてみれば 先祖伝来の地である三河から離れねばなりませんから 相当に不満や不安があったであろうと 予想されますが 家康の英断があればこそ 天皇陛下は京都で暮らしておられるにもかかわらず 政治とやがては経済の中心が 江戸になりましたから 素晴らしい決断だったと言えるでしょう。私も老後は大分県杵築市で過ごすと決定しましたが なかなか仕事が引退できなくて もどかしいのですが 父が元気なうちは 長男としてそばで面倒を見るしかないと決意しておりますので 今後の事は成り行きに任せざるを得ません。

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