Dr.喜作のブログ

2016年12月 の記事一覧

  • 12月5日 1901年の本日ウォルト・ディズニーさんが生まれました

    ディズニーさんの職業欄には映画製作者と記されていました。ディズニーさんが第一次世界大戦に 衛生兵として従軍するほど愛国心の強い人物でした。戦争から戻ると新聞の漫画を描くようになりますが、その仕事がアニメーションへと発展していったのだそうです。アニメーションの会社を設立しますが 紆余曲折ありましたけれども ミッキーマウスと言うキャラクターを生み出してから 順調に仕事を拡大していきました。その為に職業としては映画製作者と表現されているのだろうと思います。
    子供の頃に金曜日の夜七時だったか八時だったかから始まるディズニーの番組を凄く楽しみにしていたのを覚えています。実写版で動物を主人公とする物語や ミッキーやドナルドなどのアニメーションが 毎週放送されていました。私はアニメーションにはあまり興味が湧かなくて 動物を登場人物とするドラマの方を楽しみにしていました。当時は動物を主人公とする番組が 他にも「野生の王国」や「サファリ」「名犬ラッシー」等あり それらの番組もとても楽しみにしていました。
    子供の時にはディズニーのテレビ番組をよく見た程度で あまりディズニーとは縁のない生活をしていました。岐阜大学に通っている頃に東京にディズニーランドが出来た と言う事はニュースで知りましたが別に自分の生活とは接点がありませんでしたから 全く興味を持っていませんでした。所が奥様がディズニーのキャラクター 特にチップとデールが大好きでしたので 奥様と付き合うようになってから ディズニーと関わりが強くなってきました、
    初めてディズニーランドに旅行したのも 勿論奥様のご希望を叶える為でした。私はディズニーランドが 日本のそこここにある遊園地の大規模なものだと想像していました。所が初めてその地に足を踏み入れてから ガラッとその見方が変わってしまいました。ディズニーランド内は いい大人が口に出すのも恥ずかしい表現ですが それこそ夢の中の世界でした。取り敢えずは一旦入園してしまうと 俗世間とは全く一線を画した 夢のような世界にいる気分になれるのです。
    最初はアニメのキャラクターが 園内を歩き回ってお客さんに愛想を振りまいているのを見ても 只の着ぐるみ 中には小柄だから多分女性が入っているのだろうなどと 冷めた気分で眺めていました。所が園内をうろついている時に ある意味非常にラッキーだったのでしょうが ミッキーとミニーがスタッフオンリーの扉を開けて登場したのとぶつかりそうになるぐらいの近距離で出会ってしまったのです。奥様は二人とまじかに対面できて舞い上がってしまっていますし 扉を出たばかりの場所でしたから他のお客さんが気づいていませんでしたので ほんの数分間でしたが ミッキーさんとミニーちゃんを独占出来てしまったのです。
    さすがに相手はお客さんを喜ばすプロでしたから 私と奥様はすっかり彼らに魅了されてしまいました。しばらくすると周囲のお客さんが気が付いて周囲に人だかりが出来てきましたので 私と奥様はその場を立ち去りましたが それまでは人気のキャラクターであっても 只の着ぐるみとしか思っていませんでしたけれども ミッキーとミニーだけはそのような生き物が現実に存在すると確信してしまいました。その為にディズニーランドが本当に私にとっても夢の国であるように思えました。それ以降は 奥様が希望されることもありましたが 私からの希望としてもディズニーランドへの旅行が 少なくとも年に一回は企画されるようになりました。
    ディズニーランドは 単にアトラクションを楽しむだけの遊園地ではなくて パレードを見物したり 劇場で催し物を楽しんだりして キャラクターをコンタクトするのが楽しいのです。一時期は特定のレストランで食事をすると キャラクターたちが各テーブルをあいさつに回って来てくれるので そのレストランの予約をするのに夢中になった時期もありました。現在はネットで事前に予約が取れるようになりましたが 当日の朝からしか予約を受け付けてくれないレストランがありましたから 開演の二時間位前から入園ゲートに並んで開門とともにそのレストランまでひたすら走って予約を取ることに頑張った時代もありました。
    それにしてもディズニーランドはどうして年がら年中あんなに混み合っているのでしょうか。私はいつも年明けに確定申告の準備を始めて 約一月でその作業を終えた時に 自分へのご褒美として旅行に出かけることにしています。二月の始めの一番寒い時期ですから 屋外をうろつかなければならないディズニーランドとしては 一番空いているはずの時期なのです。それでも人気のアトラクションに効率的に入ろうとすると 開演の約二時間位前からゲートの前で並ぶ必要があります。その時間帯から並ぶとゲートに並んでいる人の中では殆ど一番乗りが出来ます。但しディズニーホテルに宿泊した客たちはアーリーエントリーでのんびりとやって来ても私たちよりも先に入園を始めますから 非常に不愉快な思いをします。まあディズニーホテルには一度だけ宿泊したことがありますが 宿泊料金が凄く高いうえに チャックインやチャックアウトで 思い切り待たされますから 二度と宿泊しようとは思いませんでした。そんな高い料金を払って宿泊しているのだからしょうがないのかもしれませんが。
    開園まじかになると その時間に合わせてホテルを出た奥様と合流します。二人が同時にゲートをくぐりますが 人気のあるアトラクションのスタンバイの行列とファストパスを取るための行列に分かれて並ぶために必死で走ります。但し私は恥ずかしながらいつも途中で息が切れてしまいますから 走っているつもりが早歩きになってしまっていますが 何とか行列の最後尾に辿り着きます。いつも私がスタンバイの列に並んで ファストパスを獲得した奥様と合流します。こんな風に頑張ると何とか午前中に人気のアトラクションを二つ回れます。それからは昼ご飯をどこで食べるかにもよりますが 効率的にファストパスを取ってその時間に合わせて回る順路を考えます。
    とにかくディズニーランドは何度出かけても 飽きることが全くありませんから リピーターが続出して何時出かけても満員なのでしょう。しかしここ最近入園料の値上がりが続いています。ここ数年で二千円ぐらい高くなってしまいました。二人で出かけて少なくとも三日間ぐらいは入園しますから その値上がりがかなり響きます。その為にここ二年ほどディズニーランドへの旅行は控えています。いずれ仕事を引退してから 年間パスを購入して 二人でのんびりと訪れて夢のような時間をたっぷりと味わおうと考えていますので これからもしばらくは辛抱しようと考えています。
    話がディズニーさんからすっかりそれてしまいましたが ディズニーさんは66歳で肺がんによる肺炎で亡くなられたのだそうです。禁煙を周囲から勧められましたが 全く聞く耳を持たず 晩年はかなりの酒びたりの生活だったのだそうですから 彼なりにストレスをたくさん抱えた晩年だったのかもしれません。只ディズニーランドがオープンするときのスピーチの一節「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。」と言う素晴らしい理想は 現在の世界に沢山あるディズニーリゾートで実現されているようですから 幸せな充実した人生だったのだろうと思います。

  • 12月4日 1795年の本日 トーマスカーライルは誕生しました

    スコットランドに生まれた 大英帝国の歴史を研究し評論した人物なのだそうです。有名な格言をいくつも残されています。日本で一番有名な言葉は「雄弁は銀、沈黙は金」と言う格言かもしれません。厳密にいうとこの言葉は カーライルが発した言葉ではなくて スイスの石碑に刻まれていた言葉が カーライルによって世の中に広まったのだそうです。私はそれほど社交的な性格ではありませんから 誰とでもよくしゃべる性質ではありません。しかしある程度心を許しあった関係になると かなり良くしゃべるようになります。言わずもがなの一言で 相手を傷つけたり 極端な場合は友人を失ってしまったことも少なくないように思います。
    そんな私ですから 「雄弁は銀、沈黙は金」と言う言葉をちょくちょくかみしめております。よく日本でも言われる言葉に「男の喋りはみっともない」と言うのがあります。高倉健さんみたいに見た目がカッコよければ 「無口な男ですから」と気取っていても 女性にすごくもてるはずですし 友達にも恵まれているのかもしれません。でも私の様にすごくみてくれの悪い男の場合は 少しでも面白い事を口にして その場の雰囲気を和ませたくて とにかく思いついたことを喋ってしまいます。夢中で言葉を並べているうちに 配慮が足りなくて 相手が気を悪くするような意味合いにとってしまうような表現を使ってしまう事も あるみたいです。勿論目の前にいる相手に対して 悪口を言ったつもりはさらさらなくても こちらの思惑とは異なる解釈をされてしまうような 微妙な表現を自分としては個性的な言葉として あえて使ってしまう事がしばしばあるようなのです。
    私も来年には還暦を迎える年齢ですから もう少し落ち着いて 思いついたことをのべつ幕なしに並べ立ててしまうような 大人気のない対応は改める必要があると思います。仕事としては 飼い主さんと喋ってナンボの仕事をしていますが この仕事をリタイヤしてからは 話す相手が利害関係のない人に限られてくるはずですから 迂闊で稚拙な表現で 友人関係を壊してしまうようなことは極力避けて生きていきたいのです。その為にも「沈黙は金」と言う言葉を くれぐれも肝に銘じて生きていこうと思います。
    カーライルは他にも幾つもの格言を残しています。幾つか好きな言葉を紹介しましょう。「天才とは、無限に努力できる能力のことである。」私の様に 平凡な才能にしか恵まれていないと自覚している人間には耳の痛い言葉です。私は塩野義製薬を退職して 獣医師を改めて志 再度大学を受験することを決意しました。日本の獣医学科で一番の名門は 偏差値の高さでは東大ですが これまでの研究実績などを総合的に考えると やはり北大の獣医学部だと思います。人よりも十年近く回り道をして この歳から獣医師を目指すのであれば 当然北大を目指すべきであるのかもしれません。そもそも北大は 大学自体が凄く魅力的であり 全ての大学のうちで 私の一番のあこがれの大学でした。
    模擬試験の結果から判断すると合格の可能性も十分にありました。しかし当時の北大の入学試験の形式では 入試での合否が理科系の全ての学部学科で理類とひとまとめにされてしまうのです。つまり一年半の教養部時代の成績順によって 希望の学科に振り分けられるのです。そして北大の獣医学部と言えば 看板学部でありますから 恐らく一番人気の学部なのです。と言う事は 何とか入学試験に合格して 北大に潜り込んでも 教養部時代に相当優秀な成績を収めないと 希望通りに獣医学部に進学できないかもしれないのです。
    私は当然二度目の大学ですから 授業料から生活費まで自分で稼ぎながら卒業を目指すつもりでした。バイトに明け暮れながらの 教養部での優秀な成績は 正直自信がありませんでした。別に天才になることは望みませんが やっと入学試験をとっばした直後から 教養部でかなり優秀な成績を収めるだけの努力を継続できる自信がありませんでした。それと現実的な問題として 北海道は距離的に大阪から遠すぎたこともありました。偏差値的にも確実であり 京都からJRの鈍行で二時間半の岐阜大学が私にとっては 現実的であり最適の大学と判断してしまいました。
    次にカーライルの言葉で好きな格言は「人の富とは、その人が愛し祝福するものと、その人を愛し祝福してくれるものとの数のことである。」そんなに深くはないけれども 真実を言いえているように思います。私は 自己中心的な人間で 友人と呼べる存在が 殆どいません。還暦まじかになって 情けない事だし とっても悲しいことだと思いますし 非常に恥ずかしい事だと感じています。これまで何を考えて生きてきたのか と問われてもロクな返事が出来そうにありません。私が愛し祝福するもの と言えるのは 奥様しか思い当たりません。私の事を愛し祝福してくれる人 なんて一応奥様がいるのかもしれませんが それ以外は全く思い当りません。なんて寂しい私の人生なのでしょうか。ここ数年 私は取り敢えずは老後の資金をしっかりと蓄えて 奥様と二人でのんびりできるめどがはっきりと 立てば仕事を辞めてのんびりと過ごす事しか考えてきませんでした。奥様さえ私の傍でにっこりと笑ってくれていれば それが最上の幸せだと思っていました。
    友達を何とか作ろうと考えて 合唱団の活動に半年ほど参加したこともありました。かなり平均年齢の高い集まりでしたが 歌の好きな人たちの集まりに入れてもらえれば 一緒にカラオケを楽しむぐらいの友達はすぐにできると期待していました。しかし 病院の仕事をやりながらの参加でしたから 結構忙しい生活と思われてしまったからなのか かなりの割合の方が仕事をリタイヤされて自由になる時間は少なからずありそうに思いましたが 一緒にカラオケはおろか食事に出かけた方も一人もできませんでした。今更この歳になって 親友なんて作ろうとは思ってもいませんでしたが 一緒にご飯を食べたり遊んだりする友達位は作れるのではないかと期待していましたが 無理でした。老後をのんびりと優雅に暮らせるぐらいの蓄えはほぼ出来つつありますが カーライルのいう所の富は 私には全然持ち合わせていません。自分がいかに貧しい人間であるかを思い知らされるようで 辛い格言です。
    最後にもう一つだけカーライルの格言をあげておきます。「理想はわれわれ自身の中にある。同時に、理想の達成を阻むもろもろの障害もまた、われわれ自身の中にある。」この前にあげた人の富である私を愛し祝福してくれるものを一人でも増やすことが 現在の私の理想かもしれません。その為に自分なりに努力はしているつもりですが なかなか難しいのが現実です。友達を作るには自分が心を開いて人と接することが第一歩だとは思いますが 上手く心が開けないから 相手からも心を開いてもらえないのでしょう。例えば年賀状のやり取りをする相手の数も還暦目前にしてほんの五十枚前後しかありません。仕事関係、親せき関係を除いた数は ほんとに情けないぐらいに少ないのです。別に年賀状のやり取りをしているから 本当の友人とは言えないのかもしれませんが 取り敢えずは友人を増やす始めの一歩だと考えて 来年の分の年賀状は 友人関係で住所の分っている人に出してみようと思います。意外な人から年賀状が届いても 不愉快な思いをする人は少ないと思いますから。

  • 12月3日 風邪がなかなか治らなくて困っています

    私は 恥ずかしながら 相当に太っていますので 体中に皮下脂肪をたくさん抱えて生きています、そのお蔭かどうかは知りませんが かなりの暑がりであり 人一倍汗かきです。夏は暑苦しくて周囲の皆さんに ご迷惑をおかけしているのだろうと思いますが 冬は逆に結構薄着でスッキリと過ごしています。そんな私ですが 一冬のうちに一度は必ず風邪をひいてしまいます。三十代、四十代の頃から この傾向はありましたが そもそも風邪をひくのは 精神的にたるんでいるからだと私は思っています。ですから風邪をひいてしまった時には 先ず精神的に緩んでいる部分を見つけて 自分で自分自身にカツを入れます。すると 特に薬など飲まなくても 三日もあれば健康体に戻っていました。
    所が五十代になってからは さすがに気合いだけ 精神的に緩んでいる部分を引き締めるだけでは 風邪が退散してくれなくなってきました。本来なら 内科の医者に診てもらって キチンと診断してもらって状態に即した風邪薬を処方してもらうのが 直る一番の近道だと思います、でも実際に診察を受けても 問診をして 体温を測って 喉の咽頭部の状態をチラッと見るだけで 診察は終わってしまいます。当然ですが医者が処方する薬の方が 薬局で買う薬よりも効果が強いことは間違いないと思いますが、結構待たされて その上かなりの診察料を支払わねばなりません。
    更にその場で薬がもらえなくて 処方箋を受け取り 調剤薬局に持って行って そこでまた結構待たされて そこそこの薬代を請求されてしまいます。そんな手間暇をかけて 結構な出費をするよりも 薬局で薬剤師さんに その時の症状や経過をきちんと説明して 一番適切であると判断された薬を購入する方が ずっと早くて経済的なような気がしてしまいます。医者の不養生とは昔からよく言われる言葉ですが 私も動物の病気を診察して薬を処方する立場としては 手間暇惜しまずに医者にかかる方が結局は早く楽になり 結果的には経済的であるのであろうことは分っているはずなのですが 自分の風邪に対しては手抜きの対応をしてしまいます。
    昨年までは 薬局で買った薬を飲み終えるころには きちんと回復していましたが 今年の風邪は そもそも旅行に出かける前にひき始めました。当然ですが旅行中は生活のリズムが普段と異なりますし 暴飲暴食をして 不規則な生活であり 且つほとんど屋外で過ごしていましたから 風邪が治ってくれるはずがありません。旅行から帰った翌日に薬局で風邪薬を購入して飲んでいます。三日目の本日には 殆ど直っている時期であるはずなのに 状態が好転していません。相変わらず鼻水はとまりませんし 咳も続いています。
    人間はこのような段階を踏みながら 衰えていくのかもしれませんが 知りたくもない老いの実態を痛感させられたような気がして とっても悲しい気分です。風邪が治ってくれないと 普段のストレス解消のてっといばやい即効薬である カラオケにも出かけられません。その上 自分の病院の診察予定日を 年末に控えていますから 暖かくて栄養価の高い食事もとれません。炭水化物は出来る限り摂らないつもりなので なかなか食事で元気を取り戻すのも難しいのです。この時期に有難いのが お鍋です。野菜と魚や肉などのたんぱく質をバランスよく食べられる そして凄く体も温まる有難い食事のはずですが 昨夜作ってみましたけれども 咳が止まらずのどの調子がおかしいので いつものように美味しく感じられませんでした。
    大好きな薬味の柚子胡椒も喉の事を考えて 辛抱しましたので 尚更美味しく感じられなかったのかもしれませんが 何時もなら結構雰囲気も盛り上がる一人鍋が いつもの半分ぐらいしか食べられませんでした。炭水化物がOKの時期なら 白ごはんを放り込んで 玉子とねぎを加えて 雑炊を作るところですが 炭水化物禁止令が出ていますので 勿体無いけれどもお鍋の残りは捨ててしまいました。そんな勿体無い事をして 尚更気持ちが落ち込みましたから 風邪が治るまでにはまだまだ時間がかかりそうで困っています。

  • 12月2日 本日はドラミちゃんの二歳のお誕生日なのだそうです

    私も藤子不二雄さんのアニメーションを楽しみにしていた時代がありましたが ドラエモンやその妹のドラミちゃんには あまり馴染がありません。私がはまったのは 「オバケのQ太郎」や「パーマン」の時代でした。確か日曜日の夕方 「サザエさん」より後の時間帯に放送していたように記憶しています。「サザエさん」よりも後の時間帯ですから 更に寝る時間が迫ってきていましたから 余計に寂しさを感じながら見ていたように思います。
    藤子 不二雄はと言う漫画家さんは ご存知の方が多いとは思いますが漫画家のユニット名で、本名 藤本弘(のちの藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と言う御二人で一組の漫画を描いておられました。1954年から、コンビを解消する1987年まで使用このユニット名を使用しておられました。コンビを解消されたのは 別に二人のマンガの方向性が違ってきた 等と言うミュージシャンのような理由ではなかったようです。藤本さんが 重い病気にかかってしまい 殆どの仕事を安孫子さんがこなしていたので 収入をそれまで通りに二人で折半にするのは お互いに心苦しくなって 解散の道を選択されたのだそうです。
    ドラエモンは恐らくお二人の生み出した最大の人気キャラクターだと思いますが さすがに夢のある設定だし登場人物も個性的で素晴らしい作品だとは思います。でもやはり世代的にあまりに夢のある設定は受け入れがたい年齢になっていましたので 殆どはまらずに過ごしてきました。但し ドラミちゃんだけは凄くしっかり者のとてもチャーミングな妹 と言う設定が私にとっても非常に魅力を感じる役どころでしたので ドラミちゃんが登場するストーリーの時は 楽しんでみていたように思います。まさかドラミちゃんの誕生日まで設定していあることは全然知りませんでした。
    何気なく 今日は何の日カレンダーで 本日生まれの有名人の欄にドラミちゃんの名前を見つけて 高校時代の同級生「井田由美さん(日本テレビのアナウンサー)」を見つけて以来の驚きでした。お二人の作品としては 「怪物くん」や「忍者ハットリくん」は 結構興味深く読んでいたように思います。さすがに還暦近くなると マンガ本やアニメーションとはほとんど無縁の生活になってきましたが たまにはマンガ喫茶にでも出かけて 昔懐かしい漫画と再会してみるのも悪くないかなと思います。

  • 12月1日 あっと言う間に師走です

    私と似たような年代の方なら間違いなく実感されているはずですが 一年が過ぎ去るのがほんの一瞬に感じてしまいます。こんな一瞬を積み重ねて 恐らくあっと言う間に人生最後の日を迎えてしまうのだろうと思います。今年は それでもここ数年 毎年その年の目標として掲げていた一つ目の大学時代の友人と再会を果たして 無事お食事会が出来ましたので 有意義な一年間であったと振り返ることができるように思います。
    このブログで何度も触れました 一つ目の大学時代に所属していた混声合唱団の卒団生が何と四人も枚方に住んでいるのです。一学年先輩の男性と その方の奥様でもいらっしゃる私と同期の女性 更には 大学に通っている間 恐らく世界で一番苦手にしていた 同期の女性です。苦手にしていたと言いましても 別にちょっかいでもかけて 特に嫌われていたわけではありません。そもそも私は 一つ目の大学生の頃 卒団する前には童貞と辛うじてサヨナラできましたが 女性と喋るのが凄く苦手でした。優しい女性とは何とか必要最低限の分だけは 喋れましたが 一旦怖いなあとか ワア奇麗な人だなあ と認識してしまった女性とは 殆ど喋れませんでした。先輩の奥様になられた女性は あっと言う間に人妻になるぐらいの方でしたから かなりお美しい方でしたので 当然私は殆ど口をきいていただけませんでした。もう一人の女性は 関東のご出身でした。関西人は 関東人と言うだけで少し距離を取ってしまう傾向があるのかもしれませんが 「私は関西弁をしゃべる男の人は嫌いだから そこの所よろしく」などと公言されるような女性でした。私の通っている大学が関東地方に存在するのであれば 仰ることも分らないでもありません。でも私が通った大学は 京都にあるのです。学生の半分以上が関西人だったはずです。その女性が あまり魅力的ではない外見をされていれば それほど脅威には感じなかったのかもしれませんが 顔だちもそこそこ整っておられましたし なりよりも胸のふくらみが凄く立派な方だったのです。まだ童貞だった私が その方の前にウッカリ立ったら 私の何がひとりでに反応してしまって ズボンの前の部分がテントを張ってしまうかもしれませんから 半径五メートル以内には 絶対に近寄らないように 細心の注意を払っていました。当然在学中には 口をきいていただいた記憶は全くありません。
    一学年先輩の男性は 団内で四人組のカルテットを組んだ方でしたから 個人的にも親しくして頂きましたし 後輩として可愛がっていただいたように覚えています。しかし 他の女性お二人が 私の極めて苦手な方として 認識してしまう存在でしたので なかなか再会の呼びかけが出来ずにいました。しかし 今年私と同じ年齢の方が それほど親しい間柄ではありませんでしたが 突然に亡くなられました。私も 心臓病と糖尿病を患っておりまして 二か月に一度は病院に通い 毎日薬を服用している身ですから いつ何があってもおかしくないことを改めて自覚しました。そこで清水さんの舞台から飛び降りたつもりで 思い切ってメールで一緒に食事でも如何ですか と誘ってみました。ひょっとしたらひょっとして「私を食事に誘うなんて百年早いわよ」等と罵倒されることまで覚悟しておりましたが 案外すんなりと 好意的であり肯定的なお返事メールが二三日のうちに届きました。言いだしっぺの私が 率先して日程を決めて 集まる場所も決めました。奈良に在住の私の親友である友人と 現在宇治に在住している私と高校の同窓生である女性を加えて 六人で集まることになりました。
    私の同窓生の女性は ご家族が緊急事態になられたみたいで ドタキャンになってしまいましたが 無事に五人で集まり楽しいひと時を過ごせました。私は年齢的考えて 私以外はサラリーマンでしたから 近いうちに定年退職するはずですから 楽しい老後のプランなどで話の花が咲くと予想していましたが 意外にも定年退職してからも再就職して未だ働く気持ちがみなぎっておられたのには 少しギャップを感じてしまいました。
    まあサラリーマンと自営業者では 仕事に対する感覚が異なるのは致し方の無い事かもしれません。とはいえ私にとってはとても楽しくて有意義な時間がもてたと感じましたから 頑張って今年の目標達成に向って動いたこと そしてその目標が一応達成できたことはとても良かったと思います。但し来年からの具体的な目標を失ってしまいましたから 一体何を目指して生きていけばいいのか 今のところ不安ではあります。でも何か小さくてもよいし 実行できるであろう目標を見つけて また来年からも頑張って生きていこうと思います。このひと月でそんな目標が見つかればよいのですが どうなる事やらわかりません。もし見つかったら このブログで勿論発表するつもりですので楽しみにしていてください・