Dr.喜作のブログ

2018年3月 の記事一覧

  • 3月9日 東日本大震災から七年が経ちました

    関西人としては どうしても阪神地方に起こった震災の方がずっと昔の事ですが 印象に残ってしまっています。その時も自分には 全く被害がありませんでしたが 沢山の方が亡くなられました。毎日被災して亡くなられた方の人数がどんどん増えていくのに 凄くやりきれない気持ちになったのを覚えています。東日本の震災は 同じ日本 狭い日本ではあっても 殆ど行ったことがないので 全然馴染がない地方の事なので 同じ日本の方が凄くひどい目にあわれたのに 時がある程度過ぎ去ってしまうと 申し訳ないけれども 忘れ去ってしまっています。
    たまに東北の現状がニュース番組などで 報道された時に 未だに仮設住宅で暮らしておられる方がいらっしゃることなどに 驚くとともに 正直な気持ち悲しくなってしまいます。仮設住宅なんて 現物を見たこともありませんが 恐らく寒くて 不便だし プライバシーも十分に守られていない環境だと想像します。帰れるものなら一日も早く自宅に戻りたいはずです。仮設住宅が気に入ってしまって 居座っている人なんて恐らく一人もいらっしゃらないと思います。人間はのどもと過ぎればあつさをわすれるといいますし、靴を踏んでしまった方はその事をすぐ忘れるが 踏まれた方はその事をずっと覚えているとも言います。
    震災などの大事件も 自分が被災者になってしまい 直接関わり合いを持たなければ いつの間にかニュースなどで報道されることも少なくなり 知らず知らずのうちに記憶が薄れていくのは 致し方のない事かもしれません。日本が世界で唯一の原子爆弾による被爆国であることなども 世代的にも 地域的にも 正直私には全く関わり合いのない事なので どこか他人事のような捉え方しかできず どんどん風化していっています。人間嫌な事 不幸なことは忘れることが 唯一の心の傷の治療法なのかもしれませんが 時を経ても忘れ去ってはいけない キチンと語り継がなければならない事があるのは 間違いない事かもしれません。
    ニュース番組で 震災の年に生まれた子供たちが 震災と自分たちの関わり合いについて考えてみる特集が組まれていました。自分が生まれた年に起こった出来事だし 遠く離れた地域であるわけですから 自分たちの国に関わる事として捉えて 考える事なんて 無理な話だと思います。でも子供たちが純粋な気持ちで 同胞が受けた大きな被害を 何とか自分たちにも関わる出来事として捉えようとしている姿には 心打たれました。
    年月が過ぎ去ると 自分と直接関わり合いのない事だと どうしても忘れ去りそうになります。本日もたまたまちょうど七年目と言う事で ニュースで報道されていましたので 久し振りに震災の事を思い出しました。同じ日本人が 何にも悪い事をしていないのに それまで順調に歩めて来ていたかもしれない人生を 棒に振ってしまった方も少なくないのだと思います。でも人間はどんな不幸に突然襲われても 何時までも嘆いてへこたれていられないのです。元気に 立ち直る方向に向かって 歩きださなければならないのです。
    私の人生も これまで普通の人よりも大きく回り道しましたから 順調とはとても言えたものではありませんが 何とかのんびりした老後を過ごせそうなので 取り敢えず現在の時点では 感謝しなければいけないと思っております。勿論今後に どんな不幸に見舞われるかもしれません。たとえどんなつらい出来事が起こったとしても 奥様さえ傍にいて にっこりとほほ笑んでくれていたら きっと乗り越えられる自信があります。只もし万が一にも 奥様が私のもとを去ってしまったら 私は一日でも元気に生きていけないのは 間違いありません。くれぐれも奥様がどこかに行ってしまわないように 出来る限り大切に大切にしようと考えております。

  • 3月8日 各地で不法就労事件が起こっているのだそうです

    枚方のこんな田舎でも コンビニや飲食店で 若い外国人の従業員をよく見かけるようになりました。勿論 その方たちの全てが当てはまるわけではないのでしょうが 東南アジア辺りからの留学生に 不当で劣悪な条件で 相当に長時間働いておられる人がかなりいらっしゃるみたいです。ジャパニーズドリームではないのでしょうが 日本で一日フルタイムで働くと 自国でかなりの日数働いたのと同じくらいの金額が稼げると 言われて日本へ留学と言う形で 来日される場合が多いのだそうです。
    その情報自体は 全くの間違いではないのかもしれませんが 当然最初から 渡航費や入学金 手数料などの名目で 相当な金額の借金を背負わされてしまう場合が多いのだそうです。頑張ってアルバイトして そこそこの金額を稼いでも 日々の学校の授業料や 生活費でその大半が消えてしまうために なかなか借金の返済がスムーズにいかないために どうしても無理して 長時間の過酷な労働条件を受け入れて働かざるを得ない状況なのだそうです。飲食業やコンビニでは 慢性的に人手が不足しているので そのような留学生を厳しい条件で雇うケースが 枚方のこんな片田舎でさえ 珍しくなくなっているのかもしれません。
    私は そんなに厳しい労働条件で働いた経験がありません。ほんの数年サラリーマンとして働いた 塩野義製薬に勤務していたころは 正直かなりしんどい仕事をしていたように思います。但し そのしんどさは 精神的なストレスが占める割合が高かったように思います。勿論肉体的にも 楽な仕事ではありませんでしたが 会社からの待遇が 友人に聞いた他の職場の条件よりも 凄く恵まれていました。お給料もたっぷりと頂いておりましたし 住むところも車も 年齢的には 十分なレベルのものを揃えて頂いていたように思います。ただ私がプロパーと言う仕事 病院で医者相手の営業活動を 一生続けていく自信が無かったために 辞めてしまい かなり遠回りをしましたが 現在の仕事につきました。
    病院の仕事は 忙しい時期もありますが こんなブログをダラダラと書いていられる位に暇な時間も少なからずあります。手術は かなりの集中力を求められますし 還暦を迎えてしまいましたから 精神的にも肉体的にもそれなりにしんどいのは間違いありませんが 無事にやり遂げた時には 仕事をしていての達成感や充実感を味わえますし それなりの売り上げにもつながりますから 手術の予約が入ると 正直気が重くもなりますが 有難いことだと喜んでいる気持もあります。
    時々ニュースで 過酷な仕事の為に 追い込まれてしまって 自殺を図る方もいらっしゃるみたいだし 体調を崩して深刻な状態にまでなってしまう方もおられるみたいです。正直私は 塩野義製薬と言う一流企業で 過酷ではあるけれども 十分すぎるほどに厚遇されていたのに 続けていける自信が無くて 辞めてしまいました。獣医師と言う子供の頃からなりたかった仕事が出来ていますから 特に後悔はありませんが 友人たちには散々勿体無い事だと言われてしまった決断でした。
    岐阜大学に通っていたころは 二度目の大学だし 自分の意思で立派な会社を辞めて再入学しましたから 授業料や教科書代 生活費の全てをアルバイトで稼ぎ出しておりましたので かなりのハードワークだったとは思います。主に学習塾の講師を務めていましたが 小中学生たち相手の授業は それなりに楽しかったし やりがいも感じられましたから 殆ど苦痛には感じませんでした。以前に塾の講師のアルバイトについて 少しだけ興味本位で 調べてみたことがありましたので 最近塾のアルバイトの募集のメールが届きました。大学生のアルバイトが多い職場ですから 卒業生の穴埋めのためこの時期に募集をしているのだろうと思います。時給は千円から二千円ですから 多少のお小遣い稼ぎには丁度いいのかもしれません。もし暇つぶしにでもなればと 多少は条件等をチャックしてみました。引退してからの暇つぶしと小遣い稼ぎにでも 塾の講師のアルバイトをしてみるのも悪くないのかもしれませんので その下調べのつもりで採用条件などを確認してみています。
    とにかく 私はそんなに過酷な条件で働いたこともないし 返済の苦しい借金もしたことがありません。勿論病院を開業した時や 土地と建物を購入した時には きちんとした銀行からそこそこの金額を借入しましたが 病院の仕事を毎日真面目にこなしていれば返済は無理なく返済出来る範囲の借金でした。ですから私の人生では そんなギリギリまで追い込まれた苦しい状況を味わったことがありませんので 大幅に労働条件などの決められたルールを超えたしんどいお仕事など 想像もできません。
    結局は 人手不足の世の中と 外国人を上手くだまくらかして甘い汁を吸おうとする 悪い奴らが 暗躍するためにそんな可哀想な目にあっておられる外国人留学生が少なからずいらっしゃるのだと思います。日本は 平和で治安がいいし 東南アジアの国々と比較すると 賃金レベルも高くて 魅力的な国に見えるのかもしれません。日本をいい国として憧れて来て頂いている人々が 日本の事を嫌いになってしまうような扱いをすることは 日本人としてとても恥ずかしく 残念なことだと思います。別に今更立派な国として 認められたいわけではありませんが 日本よりも苦しいお国事情の国々の方の期待を裏切らなくても済むぐらいの余裕のある国になってほしいものだと思います。

  • 3月6日 大阪の獣医師が フィラリア予防薬の違法販売で 書類送検されたのだそうです

    法律に疎い私には 書類送検と言うのがあまりピンときませんが 要するに容疑者が逃亡したり証拠隠滅の可能性が低い場合には 身柄を警察に拘束されていない状態で 起訴状が検察に送られた状況の事なのだそうです。フィラリア予防薬 と言うのは 内服や滴下、注射等の方法で犬に投与して 蚊を媒介として心臓に寄生虫が住み着いてしまう病気を予防する為の薬です。心臓に素麺の様な形と大きさの寄生虫が住み着いてしまい 犬の寿命を大幅に縮めてしまう恐ろしい病気です。蚊が飛んでいる季節 およそ五月から十二月まで月に一回投与してフィラリア症の感染を防ぎます。
    12月なんて 季節としては完全に冬ですが 十月いっぱいの予防をきちんとするためには 必要なのです。フィラリアの幼虫にはいくつかの成長段階がありますが 蚊の体内にいる幼虫が 蚊が犬の血を吸うときに犬の体内に移動します。この環境変化が起こってから一月後に次の段階に幼虫が成長します。不思議な事ですが 全てのフィラリア予防薬は この時期の幼虫を殺す事しか出来ません。更に一月が経過すると幼虫は次の段階に成長してしまい この幼虫に対してはフィラリア予防薬は何の効果もないのです。ですから予防薬は 一月ごとに投与する必要があるのです。十月の最終日に犬の体内に移動した幼虫は 十一月の最終日に予防薬の効果がある段階の幼虫になるのです。その為に十二月に予防薬を投与する必要があるのです。
    この予防薬を 既にフィラリアに感染している 即ちその犬の心臓にフィラリアと言う虫が住みついている状態で うっかり投与してしまうと 心臓の虫が大暴れして 場合によってはショックを起こして 最悪死亡する可能性があるのです。ですから フィラリア予防薬を投与する前に 必ず血液検査を実施して 前年までにフィラリア症に感染していないことを 確認する必要があるのです。例え前年にきちんと予防しているつもりでも 気温や 蚊の発生状況によっては 百パーセントこの病気に感染していないとは断言できないのです。
    もし自分に予防薬を投与するとしたら 運が悪ければ死ぬかも知れないのだとしたら ごく簡単な血液検査を必ず受けてから行うのは 当然のことだと思います。ですからフィラリア予防薬を診察もしない 血液検査も実施しないで飼い主さんに渡すネット販売は 獣医師として最低の倫理観があれば 出来ない行為なのです。うちの病院で 検査を受けずにフィラリア予防薬を希望されたとしたら どんなにお金を積まれようとお断りしております。自分の可愛い犬が ひょっとしたら死ぬかも知れないのに平気な ペットに愛情の薄い飼い主さんなんて うちの病院に出入りして頂きたくありません。
    検査をしなければ 確実な安全の確認が出来ない薬を ネット販売するような非常識な獣医師は 厳しい罰を受ければよいと思います。でも そんな愚かで金儲けさえできればいいような動物病院の商売が成立するのは 簡単に予防薬が手に入るので 利用してしまう薄情な飼い主さんにも 責任があるように思います。私は だらしないし 嘘もつくし 人を平気で裏切る最低の人間ですから 偉そうなことは言えないのは重々承知しているつもりですが ペットを飼い始めるという事は その小さな命に対して 全ての責任を負う事ですから それなりの覚悟をしてからにしていただきたいと思います。命のない道具やおもちゃなら たとえどんなに高価な物でも 飽きてしまえば 捨てるなりほったらかしにしても 構わないのかもしれませんが 小さな命が天寿を全うするまでは 出来る限り大切に扱って欲しいと私は思います。

  • 3月5日 本日は二十四節気のひとつ「啓蟄」です

    「啓蟄」と言う言葉は 読めるかもしれませんが なかなか自力で書くことが難しいように思います。言葉の意味は徐々に有名になってきましたので ご存知の方も多いと思いますが 冬籠りをしていた虫たちが地上に這い出てくる時期なのだそうです。暖かくなり 虫たちが這い出して来るのは 自然の営みであり 微笑ましい事の様に思いますが やはり暖かくなると 路上でおばさんたちが ダラダラと長時間にわたってたむろする様になり その光景を見かけるのは 不愉快この上ありません。
    私も気の合う友人と出会うと 話が弾んで 長時間お喋りをすることは 珍しくおありません。私は男のくせに お喋りなので よく奥様に呆れられます。しかし 路上で長時間 たむろするようなことはありません。楽しく長時間お喋りしたいのなら どうしてどちらかの家のリビングで お茶でも飲みながら ゆったりと過ごしたいと思います。何で好き好んで 道端の日焼けはするし 風が吹くとまだ肌寒いし 車が通りかかれば 排気ガスを吸い込むような道端で 長時間過ごしたがるのか 不思議に思えます。奥様は 私好みの聡明な女性ですから 道端で立ちん坊をするような恥ずかしい行為は決してしないだろうと信じております。
    今年は 暖かくなるのが例年よりも遅いように感じています。野菜の価格が政府の見込みでは 三月になると落ち着いてくるはずでしたが 一向に安くなってくれません。例年に比べて 暖かくなるのが少し遅れているのかもしれません。いずれ暖かくなると 道端でたむろするオバサンたちが 増殖してしまうのは 毎年の必然的な出来事ですが 出来たら病院のすぐ前の歩道には湧いてきてほしくはありません。
    暖かくなると 動物が病気になり易い季節になりますし 各種の予防の始まる時期ですから 病院の売り上げにつながる 有難い時期を迎えるわけですし 一年で一番過ごしやすい時期をになりますから 有難いのですが 暑くて耐えられなくなるまでの間 オバサンたちの井戸端会議が繰り広げられるのは 私は非常に不愉快です。自分自身がジジイになってしまっていることは自覚しているつもりですが どうしても我が物顔でオバサンたちが公共の場所のはずの道端に 堂々と居座っているのは どうしても腹立たしく感じてしまうのです。これが女子高生が立ち話をしているのには かえって嬉しくなってしまうのですから 自分勝手な感情であることは間違いないのですし その女子高生たちだって数十年後には オバサンになってしまう事も分っているのですが どうしょうもありません。
    あまりくだらない事ばかり書き並べていると また奥様からお叱りを受けますので 本日は短めですが この辺で御終いにしようと思います。

  • 3月4日 同窓会二日目です

    年よりは早起きだと言われますが 私はやっぱりいつものように六時ごろ目が覚めてしまいました。どんなに疲れていても 夜更かししても 大抵六時ごろには一旦目が覚めてしまいます。旅館の案内に 朝風呂は六時から と書いてありましたので 私はなるべく静かに起き出して 着替えの下着やタオルを抱えて 風呂場に向いました。脱衣所につくと 一人先客がいました。風呂場に入ってみると 普段から四時ごろには活動を始めてしまう と仰っていた先輩が湯船に浸かっておられました。「やっぱり朝は早いんですね」と声をかけると 私と同様に「自然にいつもの時間に目覚めてしまうのだ」とお答えになりました。やはり老人は 朝が早い習性のみについた生き物なのでしょう。
    ゆっくりと温泉に浸かって 温まってから 部屋に戻りました。同室の二人はまだ健康的に寝息をたてながら眠っていましたので ロビーに向いました。やはり朝 早くに目覚めた人たちが既に五六人集まって談笑しておられましたので 私も加わりました。大学時代はみんな同じ大学生でしたから 似たような立場のはずでしたが それから数十年間 みんなそれぞれの人生を精一杯に生きてきたから 現在の経済状態や健康状態にばらつきはあるのかもしれませんが このような機会に笑顔で集まれるのだと思います。
    私は性格に問題があるみたいなので 恥ずかしながら友達が凄く少ないみたいです。それだけに 大学時代の友人 と言う損得勘定抜きで付き合える友人が そこそこいてくれることは 凄く有難い事だと思います。岐阜大学時代の六年間も 私としては精一杯に頑張ったつもりですが やはり同級生と十歳近い年齢差がありましたので そこそこのお付き合いをしてくれた友人はほんの数人いますが やはり本音で話が出来るかと問われたら 首をひねらざるを得ません。一つ目の大学時代の友人も 同じ研究室の友人たちとも仲良くしていたつもりでしたが いつの間にか年賀状のやり取りもなくなってしまい現在連絡の取れる人はいません。ですからこのサークルの友人たちは 私にとって貴重な財産だと思いますので 大切にしていこうと考えております。
    楽しくおしゃべりをしているうちに 朝食の準備が出来たことを告げられたので 部屋に戻りました。同室の二人は まだすやすやと眠っていたので 起こしました。私のいびきで 私が眠っている間お二人はほとんど眠れなかったのかもしれませんので 申し訳ない気持ちになってしまいました。一人が起きたとたんに風呂に入りたいと言い出したので 入浴している間 もう一人の方と話したり 奇麗に手入れされた庭を散策したりしました。風呂から友人が戻ってきたので 三人で朝食会場に出かけました。昨夜の料理もなかなか手の込んだ料理が品数豊富にでてきていましたが 今朝の朝食も色んなおかずが少しずつ用意されていましたので 大変美味しく頂けました。
    ロビーでコーヒーを頂きながら談笑していると チェックアウトの時間が来ましたので 本日のメインイベントである 私たちの時代に顧問をしていただいていた理工学部の教授のお墓参りに常寂光寺に出かけました。その先生が この有名なお寺さんとどの様の関わりを持っておられたのか分りませんが ご存命のうちからこのお寺の境内に一軒家を構えてお住まいだったのです。現在もその奥様が そのお宅に住んでおられるみたいです。ですから 私たちはこのお寺を参拝するときには その先生の名前を出してお宅に伺いました と言えば 只で御寺に入ることが出来ます。勿論パンフレットはもらえませんけれど。
    旅館からそのお寺まで 結構な距離があると思っていましたので 当然車で移動するのだと思っていましたが 皆が当然のように徒歩で出発したのには 正直少し驚きました。平均年齢六十以上の爺さん婆さんの集団ですが みんな足腰が達者なようです。一応旅館とお寺は 同じ嵐山地区にありますから ひょっとしたら歩くかもしれないとは思っていましたが 皆が当然のように歩き出しましたから 十五分前後で到着できるのかと思っていましたが 三十分前後はかかりました。それも結構な上り坂がありましたので 太っている私は 汗をそれなりにかいてしまいました。もし歩いて移動するときには 私が人一倍の汗かきだから 決してジャンパーは着ていかないように 奥様にくぎを刺されておりましたが 歩き出した時には結構肌寒かったので うっかりジャンパーを着てスタートしてしまいました。
    奥様の予想通り 直ぐに私は暑くなって 汗をかきそうになったので ジャンパーを脱いで 肩にかけましたが 更に上り坂は続きましたので 私は一人だけ汗だくになってしまいました。本当に無駄に太っていると ろくなことがありません。お墓参りに参加することは分っていたので 奥様が御数珠を用意してくださっていたのですが 出かけにちょっとだけバタバタしたので 忘れてきてしまいました。ジャンパーを着て汗をかいたことと お数珠を忘れたことで また奥様にお小言を頂戴することになりますので 一寸だけ気が重かったです。
    無事にお墓参りが済んで 取り敢えず解散となりました。私は奈良の友人の車で送ってもらう段取りでしたので その友人と先輩二人と一緒に等持院に向いました。友人と昼ご飯を食べる予定でしたが まだ少し早いので 立命館大学に一番近いお寺さんへ寄る事にしました。立命館大学とは 通りを隔てて隣り合わせですが 友人が在学中一度も訪ねたことがない と言う事でしたので寄ってみました。近所には 竜安寺や金閣寺など京都を代表するようなメジャーな観光地があり 非常に混み合っていますが 等持院はそれほど知名度も高くありません。ただ足利尊氏の菩提寺であり 庭の紅葉も美しいので 秋には結構観光客が訪れます。
    私もかなり久し振りに訪れてみると 運悪く足利家の歴代の将軍たちの像が並んで設置されている建物が 改修中で見学できませんでした。仕方がないので お庭をのんびりと見学して まったりとした時間を過ごしただけで 立ち去りました。先輩たちが 京都駅から電車に乗る と言う事でしたので 京都駅に立ち寄り 見送ってから 予約をしていたレストランに向いました。そこで奥様と合流して 三人で楽しく昼食を頂き 友人と別れました。
    病院を昨日の午後と 本日の午前中閉めて参加した同窓会でしたが 凄く有意義で楽しい時間が過ごせたように思います。今後もこのような機会があれば それこそ私の人生で 最後の出会いになるのかもしれませんから 勿論仕事は大事ですが 積極的に参加するようにしようとおもいました。

  • 3月3日 昼から 一つ目の大学のサークルの同窓会に参加しました

    私は 決して人に誇れることとは考えておりませんが 大学を二つ卒業しました。一つ目が立命館大学理工学部化学科高分子研究室です。二つ目が 現在の職業につながる岐阜大学農学部獣医学科薬理学研究室です。一つ目を卒業してから四十年近くがたちますから 勿論担当して頂いた研究室の教授もお亡くなりになっておられるようです。私は現役の時に 第一志望として大阪府立大学農学部獣医学科を受験して 合格できませんでした。一旦は獣医師になる夢を諦めて 不本意ながら 立命館大学に入学しましたので 化学と言う学問自体嫌いではありませんでしたが 真剣に取り組む気持ちにはなれなくて ただ卒業するために単位を取得して 就職活動をして 塩野義製薬と言う会社に入社しました。
    そんなわけで 授業には必要最低限度にしか出席しませんでした。殆ど化学について 人に自慢できるレベルの知識は身についてはおりません。授業をサボって サークル活動にばかり精を出しておりました。そのサークルが 混声合唱団です。名称を「メディックス」と言います。ムラサキウマゴヤシという花の名前なのだそうです。その花の現物を見たことはありませんが 一輪だけでは貧相で華やかさもありませんが 沢山集まるとそれなりの美しさや可憐さが感じられる花なのだそうです。一人一人の歌声は大したことないけれども そこそこの人数が集まって 頑張って練習を重ねて 気持ちを一つにすれば それなりの魅力的な合唱を披露できることを目指してつけられた名前なのだそうです。
    数十人からなるサークルですから 練習会場としては ピアノがステージ上に常設してある 大教室を使用していましたが 活動の拠点としては部室確か当時はボックスとみんなが呼んでいた部屋がありました。私は学生でありますから あくまでも本分は勉学であるはずで まずは教室なり研究室に顔を出すところから一日が始まるはずなのに 取り敢えずサークルのボックスに顔を出しておりました。朝一でボックスに顔を出すような学生は 授業にまともに出席していない ろくでもない学生のはずですが 結構ボックスには誰かしらいましたので その連中とインスタントのコーヒーでも飲みながら グダグダとダベッテおりました。
    学生なら喫茶店で グダグダするのが当時の流行でしたが 私は喫茶店に出かけるお金がなかったので ボックスの香りが殆どしないインスタントコーヒーで辛抱しておりました。昼になると 生協の食堂で 卵ご飯定食ばかり食べておりました。当時 中ライスが60円で 生卵が30円に味噌汁10円をつけて 合計百円 ワンコインで昼ご飯を済ましておりました。当時私は一月の小遣いが一万円でしたし 定期的なアルバイトもしておりませんでしたので とにかく貧しかったのです。経済的にどうしても苦しい時には 裕福な先輩に精一杯尻尾を振って ヨイショしておごってもらう作戦を実行して 結構成果を上げておりました。
    本来のサークル活動である 合唱の方は 私はピアノを長年やっておりましたので 符読みつまり楽譜を見て音程やリズム通りに歌う事は 簡単でしたが 響きのある合唱向きの発声がなかなか身につかなくて 苦労しておりましたけれども まあ楽しく皆と歌っておりました。勿論百人近い男女が寄り集まっているサークルでしたから 仲良くなれる人がいれば どうしても波長が合わなくて 人間関係が難しい事を実感したことも何度もありました。
    でも卒業して四十年近く経っても 誰かが集まろうと声をかけてくれれば 二三十人の人間が 何とか都合をつけてでも集まろうとする位ですから 結構仲が良くて 和気あいあいと活動していたのだと思います。本番の集まりは 旅館で夕食を取りながら ゆっくりと旧交を温めようという事でしたが せっかく京都に集まるのですから 懐かしいキャンパスをウロウロして思い出に浸りましょう と言う企画を私が言いだしまして 昼の二時に集合をかけてみました。
    その企画を思いついたのが 一週間ほど前でしたし 幹事の方にお誘いのメールを送ったのが ほんの数日前でした。急にそんな事を言われても対応できない方が殆どだろうと思っていましたが 約束の時間に 集合場所に行ってみると 頭が薄くなった爺さんばかりが 五人も集まって頂けました。さっそくいつもの練習場所である教室を覗いてみようとしましたが 勿論使用許可を取っていませんから扉に鍵がかかっていて入れませんでした。その建物の屋上が結構見晴らしが良いので上がってみました。私たちがいた頃には全く存在していなかったお洒落なエレベーターに乗り込み最上階まで行ってみました。
    昔は 勝手に屋上に出られましたが 現在は管理が厳しくなったのでしょうがないのかもしれませんが 屋上に出る扉も鍵がかかっていました。その校舎を出て 私たちの理工学部があった場所に向いました。もうかなりの昔に 理工学部は草津キャンパスに移転してしまっていましたので 私たちが使用していた建物は残念ながら影も形もありませんでした。その代りにもっとお洒落な名前の学部の かなりお洒落な校舎が並んでいました。私たちの頃には 理工学部の建物は一号館から七号館まで 数字で呼ばれていて味も素っ気もありませんでしたが 現在存在している校舎には もっともらしい立派な名称がついているみたいで 少し悔しく思いました。
    見たことも聞いたこともないような学部の こ洒落た校舎の前を通り抜けていくと 依然は体育の授業の時使用していた運動場のあった場所が 如何にも大学のキャンパス と言った雰囲気の公園になっていました。現在の学生は体育の授業はどこで受けているのか疑問に思いました。辛うじてボックスのあった学生会館は 現存していましたが 併設されている喫茶店は 凄くおしゃれに変身していました。私はそこでお茶でも飲もうと考えていたのですが 本日はお昼で営業終了みたいでした。隣の以前は体育館だった建物の前を通ると 見た目から全然変わってしまっていてなんと立派な図書館になっていました。
    その中にタリーズコーヒーと言う喫茶店がありましたので そこでみんなでお茶をにみながら一服しました。のんびりと話しながらグダグダやっていましたので いつの間にか夜の本番の集まりの集合時間が迫ってきましたので 友人の車で移動しました。集合時間よりもかなり早めに到着しましたが 既に集合場所には かなりの人数が集まっていました。昨年集まりがあった時に顔を合わせていた人もいましたが 卒業して以来初めて再会する人たちもいました。最初は一体だれなのかさっぱりわからない方もいれば 現役の学生時代とさほど変わっていないような若々しい人もいました。
    風貌が変わってしまっているのは やはり男性の方が多かったように思います。残念ながら 禿ジジイになってしまっている人も少なからずいました。私はかなり白髪が増えてしまいましたし 頭髪のボリュームも全然なくなってはおりますが まだ禿ジジイにはなっていないつもりです。但し私の場合 現役の学生時代よりも体重が30キロ近く増加してしまっていて 体形そのものが大きく変化してしまっていて そちらで皆さんを驚かせてしまいました。風貌の変化に最初は戸惑いを感じた方々とも 暫く話 していれば 人柄は学生時代とあまり変化していない方ばかりみたいで 直ぐに打解けて昔話に花が咲きました。
    私自身 かなり大きく変化していて お恥ずかしい限りでしたが 男性でも女性でも 学生時代に可愛らしかった方の方が 変化が大きいように感じてしまいます。学生時代の可愛らしいイメージが 年齢なりにオジサン オバサンに変化してしまっていることに かえってそのギャップを大きくとらえてしまうのかもしれません。それにしても学生時代にほっそりしていた方は 相変わらずほっそりしたスタイルをキープされているのには 驚いてしまいました。六十歳前後になって スマートな方は 一生太る悩みとは無縁なのでしょうから羨ましい限りです。
    夜の宴会が始まり 最初は皆大人しく自分の席で飲み食いしていましたが みんなそこそこお酒が入ってくると 話したい人間の所に押しかけていって 座り込んで夢中になって話し込んでいました。この年齢になって みんな笑顔で楽しく会話できるのですから それなりに皆さん幸せな人生を送って来られたのだと思います。その時に初めて聞いた話なのですが 恐らく四年後ぐらいに みんなでドイツに出かけて 教会で宗教曲を歌おう と言う企画があるのだそうです。そもそも今回の集まりが開かれるきっかけは 私の二年先輩の女性で 確か普通の文学部の学生さんだったはずの方が あまりに音楽に精通しすぎていて プロの音楽家になられて活動されています。それも活動の場が 日本ではなくてドイツなのです。クラシック音楽の本場ドイツで 数十年にわたって音楽家として名の通ったオーケストラに在籍されて活動しておられるのだそうです。
    その先輩がたまたま日本に帰って来られるので その先輩を囲んで楽しいひと時を過ごそう と言う企画が 発展してなんと泊り込みで 二十人以上も集まる大きなイベントになってしまったのです。その先輩の口利きで ドイツのそこそこ由緒ある教会で そこそこのレベルのオーケスストラを伴奏に宗教曲を歌おうという企画が ある程度現実味を帯びた段階まで 話が進んでいるのだそうです。四年後には 私は間違いなく仕事を引退しているはずですから その場で参加の確約を求められて OKの返事をしてしまいました。かなり昔に 自慢話としてこのブログに書きましたが この音楽家の先輩が千年に一人のアイドルと言われている 橋本環奈ちゃんの叔母さんにあたられるのです。本音としては 環奈ちゃんの事を根掘り葉掘り聞きたかったのですが 先輩と面と向かってしまうと 恥ずかしくて環奈ちゃんの話題はだせずじまいでした。とっても残念です。
    話は尽きませんが 十時を回ったころに 一応お開きとなり 各自割り当てられた部屋に戻りました。私の部屋は三人部屋で 部屋割りを決めるときに いびきをかく奴はいないか という質問に手を挙げたので いびきをかく自覚のあるメンバーが三人集められました。部屋に戻って まだ飲み足りないものが お酒とおつまみの残りをかき集めてきて 飲み始めて更にダラダラと話し込みました。私が引退したら 田舎にそこそこのまとまった土地を購入して 思いっきりのんびりしたいと話すと 二人とも田舎にそこそこの土地を持っている人間だったので 田舎暮らしがいかに煩わしいものか 厄介で大変で面倒なものかを トクトクと説明されてしまい、結構凹んでしまいました。凹みながら 眠りについて 大いびきをかいて 同室のお二人に大変迷惑をかけてしまったのだと思います。そんなこんなで楽しい同窓会の一日目は幕を閉じました。

  • 3月1日 1810年の本日 ショパンが生まれました

    ピアノに全く興味も縁もない人でも ショパンの名前を知らない人は おられないように思います。私は 見た目からは意外に思われるかもしれませんが ピアノを十年以上 先生について習いましたので 下手したらピアノで飯を食おうかと考えたことがある位の腕前なのです。幼稚園の時に友達に誘われて木琴教室に通い始めました。小学校に上がると 木琴の発展した形の楽器 マリンバを習うようになりました。
    妹が 幼稚園の時オルガン教室に通いだして やはり小学校に上がった時に 近所のピアノ教室に通うようになりました。私は小学校の三年生になっていましたが 妹がピアノを弾いているのを見ていて 私も弾いてみたくなり 両親に頼んで ピアノとマリンバの二足のわらじを履くことになりました。練習は毎朝三十分ずつ頑張る習慣がつきました。当時は 2DKのアパートに住んでいましたから 相当にご近所迷惑だったろうと思います。何しろ私は毎朝 六時半から 三十分ピアノの練習をして 七時から三十分マリンバの練習をしてから 朝ごはんを食べて学校に出かけていました。勿論日曜日も同様の時間帯に練習をしていました。
    私が朝に強いのは 血圧が高めだからかもしれませんが 子供の頃から早起きの習慣が叩き込まれていたからかもしれません。まあ小さな子供が弾いているのですから 大したボリュームではなかったのかもしれませんが 周囲の人を楽しませるレベルではなかったはずですし 薄い壁一枚の安物のアパートですから ご近所さんたちが 温かい心で受け止めて頂いていたおかげで 大したもめ事も起っていなかったように思います。妹は昼間の普通の時間帯に練習していましたが 私は学校から帰ってからは 友達と普通に遊びたかったので 朝の練習は それなりにしんどかったけれど それほど苦痛には感じておりませんでした。
    それとある程度大人になってからは 男がピアノを習っているというのは 恥ずかしくありませんが 子供の頃には恥ずかしくて とても友達には話せない習い事でした。特に私はマリンバとの二足のわらじでしたから 楽器の習い事を二つなんて 絶対に友達には秘密にしていました。只中学校の時の部活は 何とバレーボールでしたから 突き指をしやすいスポーツで ピアノと並行してやっていくのは 相当に苦労しました。
    そんなに苦労しながらもピアノの練習を頑張っていた私にとっては ショパンはやっぱり一番好きな作曲家でした。大学に入ってからは 好き勝手に自分の弾きたい曲を練習するようになってからはベートーベンのソナタにもチャレンジしましたが ショパンのワルツやエチュードをよくチョイスしておりました。同じ学科の友人に ものすごくピアノの上手なのが一人いました。私も十年以上習っていたので そこそこピアノには自信がありましたが 正直足元にも及ばない位のレベルの達人でした。
    その友人が ショパンのバラードやスケルツォ等の凄く難しい曲を さらりと弾きこなしていました。私も己の実力をわきまえず 無謀にもショパンのバラードにチャレンジしてみましたが 人間は器の大きさが決められているみたいで どれだけ繰り返し練習しても 自分で納得のいくテンポでは弾きこなせませんでした。ショパンは作曲家であるとともに 勿論一流のピアニストでしたから 間違いなく自分の作品は 思い通りに弾きこなしていたはずです。わずか39歳で亡くなられていますし 幸せな家庭を持っていたわけでもなさそうですから 客観的に見て本人としても それ程幸せを実感していなかったのかもしれません。でも自分の作品を 自分の好きなように弾きこなせたのなら 私にすれば羨ましい事この上もありません。私はショパンのバラードの一番のコーダの部分を自分の思い通りに弾きこなせたなら 最高に幸福を感じられると思います。
    私の人生の三分の二よりも短い生涯でしたが 没後二百年近く経っても 未だにピアノを弾くものにとっては 憧れを抱く存在ですから 凡人の私などには理解できるはずのない 素晴らしく充実した人生であったはずだと信じております。私の一番の親友は モーツァルトの信奉者で ショパンの音楽をチャライとか薄っぺらい等と 小馬鹿にしております。私から言わせれば 確かにモーツァルトの作品は多岐に渡りますし 一つ一つの作品の完成度も高いとは思いますが それは彼が単に才能に恵まれていて その才能を楽譜に書き記しただけのように感じてしまいますので あまり尊敬の念を感じる作曲家とは思えません。
    久し振りにショパンのバラード集を ずっと昔から一番大好きなピアニスト アシュケナージの演奏で 聴きなおしてみて 若かった頃 ピアノに情熱を傾けていた時代を思い出してみようと思います。